第86話:別れの岸辺
「お前さんが誰か知らねえし、女と争う趣味もねえ。だが
弓を引き絞るように。
ずいと半歩踏み出し、
「怯えないで。ここに狼は居ないのだから」
真白い手が、すっと伸びた。ちょうど互いの真ん中まで。
鋼のごとき腕の向こう。無惨な衣服に包まれた女性を、どうしても悪とは思えない。
「教えてもらえるの?」
一歩。斜めに踏み出し、
出された手が胸に触れた。けれどもまだ、こちらから手を触れようとは思わない。
「私に答えられるなら、どんなことも」
悲しげな眼にまばたきもなく。
「……あなたは誰?」
「
(妹。だから)
あれは本当だと
ただ。言うことを聞くなと言いながら、ジーニャの名に親しい者同士の匂いがあった。
ゆえに妹とは納得がいく。多少の知人などであれば、逆に信じられなかった。
「お母様は、あなたの言うことを聞くなと」
「ええ、私にも聞こえました。どういう意図で姉がいるか、正確には分かりません。でもきっと、私が余計なことをしているのでしょう」
「余計なこと?」
出されたままの手を、そっと見下ろす。命にどうこうという傷はないが、切り傷や痣が無数だった。
どういう時、こんな姿にされるのだろう。脳裏に浮かびかけた
「姉と私は、野盗に拐われました。
およそ裏付ける言葉が、簡潔に並ぶ。話す速度は変わらず、気遣うなと言われたように思う。
「姉は運がいいのか悪いのか、それからも荒くれに襲われました。でも最後に、間違いなく幸福をつかみました」
「お父様——
冗談めかして話させたのに、唇を噛んだ。しかと目を開け、「ええ」と頷く
「だから私は、姉を地上へ戻してやりたいのです。直接は何もできませんが、あの父子が叶えてくれると信じています。いつか姉と
既に起こったのをかわいそうと言っても、なかったことにはならない。せめて死後、安らかでいてほしい。「そうね」としか声が出なかった。
あれこれ言ったところで、死した当人がなお苦しんでいるのでは救いがない。
「でも」
肯定に否定が返る。驚く
「それを姉は、余計と考えているのだと思います。夫と子に危険な目を見さすなと」
「ええと……」
互いの言い分が、どちらとも頷ける。一方が必ず正解とは言えず、どちらも正解と言えなくもない。
妹と夫と息子なのだ。どの気持ちが重いと、誰が決められるでなかろう。無論、
「言いわけに聞こえるでしょうけど、あの父子を焚きつけたことはありません。姉を捜しに潜るのは、
「いいえ、お父様のお気持ちは聞きました。堅い方だから、直接の言葉はなかったけど。あなたの言う通りと思うわ」
自分たちを襲った不幸について、血を吐くように
悲しみや憂いが端々に溢れ、それ以上を聞く必要はなかった。それでも問う必要があるのは、現に生きる家族だけだ。
「あなたのお話、信じるわ。疑ってごめんなさい」
「いえ。信じてくださってありがとう」
どうにか口から出すことだけは堪えたけれど。
「あなたの力があれば、姉は地上へ戻れるわ」
「私の? 私なんて何も」
気持ちの落ち着くまで、幾ばくかそうしていた。そのうち
「いいえ。何が、と私から言えない。でもあなたにしかできないことがある。姉のためにでなく、
あの男の名を出されるまでもない。だが出されてはなお、「分かりました」と応じるしかなかった。
と、気のせいか。
「あら、もうここに居られないみたい」
「ええっ? そんな、どうやって戻ればいいか分からないのに」
どこだかも分からぬこの場所を、彼女はよく知っているようだった。図々しいと言われても、道案内がなくては困る。
必死さがおかしかったか、
「大丈夫。案内はそこにあるわ」
「案内が
空いた手の、羨ましいほどに細く長い指。
するとそこに、丸い感触があった。
取り出すと、
「壊してしまったと思ったのに」
「じゃあ、気をつけて」
既に
行ってしまう。と慌てて見たが、まだ同じ位置に居た。ただし透けた身体が蜃気楼のようで、余計に慌てた。
「か、身体が」
「平気です、ここに居られなくなっただけ。あなたが戻ってくれば、また会えます。まだお別れではありません」
「そうなの?」
そうして話す間に、
「
「おう」
大きな手が灯籠の油皿を拾う。と同時、
あちらへ帰ったのだ。確証はないが、きっとそうだと感じる。
言われた通り、
それは行列から遠ざかる向きで、行っても良いのか迷った。しかし
「どうもここらしいぜ」
不可思議な平面ばかりの景色が、やがて水辺に突き当たった。薄墨色の先は見通せないが、変わらず
「う、うん」
「見てるからよ。先に行きな」
「一緒に行かないの?」
水に入る経験が乏しく、覚悟を決める時間が必要だった。その上に
「……いや、行くぜ。ただ、実は泳げねえ。
「そういうことね。わ、分かった。頑張る」
内緒にしてくれよ、と恥ずかしげに巨漢は笑った。弱々しい油皿の火を、高く持ち上げて。
「行くわ。うん、冷たくも何ともない」
他ならぬ
見た目に間違いなく、海か川かへ入っていた。だが濡れた感触はなく、首を傾げつつ。
「その調子だ」
励ます声が、思いのほか遠い。さっと振り返ると、岸辺がもう二十歩も向こうにある。
「ふ、
「ああ、悪いがオレは行けねえ」
「そんな、何を言ってるの。
皿のないほうの手を暢気に振って、
「うまいこと言っといてくれ。オレは戻って、行列に並ばなきゃいけねえ。
冥土を訪れた者が、茹でて清められる釜。
ひゅっと背中を、寒気が走る。
「駄目! 来て、早く!」
立ち籠める薄墨色が打ち消すように、絶叫が届くかも怪しい小声にされた。
「じゃあな。最後に会えて嬉しかったぜ」
戻ろうと思った。が、足が勝手に進む。速い流れが岸から遠ざかり、逆らえなかった。
じきに、照らした油皿の火も弱まっていく。
光が薄くなると、
さすがと言って良いものか、巨漢の闘士は無数の手と渡り合った。
声が聞こえずとも、雄々しく吼えるのだけは分かる。無数の手を無数の手数で引き千切りながら、
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