第86話:別れの岸辺

「お前さんが誰か知らねえし、女と争う趣味もねえ。だが春海チュンハイはオレの仲間だ。どうにかしようってんなら——」


 弓を引き絞るように。飛龍フェイロンの腕が引き締まり、胸前へ構えられる。

 ずいと半歩踏み出し、春海チュンハイを庇いつつ。


「怯えないで。ここに狼は居ないのだから」


 真白い手が、すっと伸びた。ちょうど互いの真ん中まで。

 鋼のごとき腕の向こう。無惨な衣服に包まれた女性を、どうしても悪とは思えない。


「教えてもらえるの?」


 一歩。斜めに踏み出し、飛龍フェイロンに並ぶ。

 出された手が胸に触れた。けれどもまだ、こちらから手を触れようとは思わない。


「私に答えられるなら、どんなことも」


 悲しげな眼にまばたきもなく。春海チュンハイが頷くまで、じっとまっすぐに見つめ続けた。


「……あなたは誰?」

破蕾ポーレイの妹。本当はジーニャというのですけれど、ジンの人には馴染みがないのでしょう? 呼ばれるまま、今は金魚ジンユと」


(妹。だから)

 破浪ポーラン偉浪ウェイランを逃がせと言った声は、破蕾ポーレイと名乗った。

 あれは本当だと春海チュンハイには思える。でなければ他の誰が、わざわざそんなことを言うのかだ。


 ただ。言うことを聞くなと言いながら、ジーニャの名に親しい者同士の匂いがあった。

 ゆえに妹とは納得がいく。多少の知人などであれば、逆に信じられなかった。


「お母様は、あなたの言うことを聞くなと」

「ええ、私にも聞こえました。どういう意図で姉がいるか、正確には分かりません。でもきっと、私が余計なことをしているのでしょう」

「余計なこと?」


 出されたままの手を、そっと見下ろす。命にどうこうという傷はないが、切り傷や痣が無数だった。

 どういう時、こんな姿にされるのだろう。脳裏に浮かびかけたが過酷すぎ、きゅっと目を瞑った。


「姉と私は、野盗に拐われました。どこかの城・・・・・に連れていかれ、人買いに売られ、運ばれる途中でまた拐われました。私が息絶えたのはその時です。姉は逃げたので、それからずっと見守っています」


 およそ裏付ける言葉が、簡潔に並ぶ。話す速度は変わらず、気遣うなと言われたように思う。


「姉は運がいいのか悪いのか、それからも荒くれに襲われました。でも最後に、間違いなく幸福をつかみました」

「お父様——偉浪ウェイランのことね」


 冗談めかして話させたのに、唇を噛んだ。しかと目を開け、「ええ」と頷く金魚ジンユを見る。


「だから私は、姉を地上へ戻してやりたいのです。直接は何もできませんが、あの父子が叶えてくれると信じています。いつか姉と偉浪ウェイランが、並んで眠れるように」


 既に起こったのをかわいそうと言っても、なかったことにはならない。せめて死後、安らかでいてほしい。「そうね」としか声が出なかった。

 あれこれ言ったところで、死した当人がなお苦しんでいるのでは救いがない。


「でも」


 肯定に否定が返る。驚く春海チュンハイに、金魚ジンユは笑って見せた。出した手を口もとへ運び、嗚咽を堪えるようにして。


「それを姉は、余計と考えているのだと思います。夫と子に危険な目を見さすなと」

「ええと……」


 互いの言い分が、どちらとも頷ける。一方が必ず正解とは言えず、どちらも正解と言えなくもない。

 妹と夫と息子なのだ。どの気持ちが重いと、誰が決められるでなかろう。無論、春海チュンハイにも。


「言いわけに聞こえるでしょうけど、あの父子を焚きつけたことはありません。姉を捜しに潜るのは、偉浪ウェイラン自身の意思です」

「いいえ、お父様のお気持ちは聞きました。堅い方だから、直接の言葉はなかったけど。あなたの言う通りと思うわ」


 自分たちを襲った不幸について、血を吐くように偉浪ウェイランは語った。

 悲しみや憂いが端々に溢れ、それ以上を聞く必要はなかった。それでも問う必要があるのは、現に生きる家族だけだ。


「あなたのお話、信じるわ。疑ってごめんなさい」

「いえ。信じてくださってありがとう」


 金魚ジンユの手を上から包み、己の頬に当てた。冷たい死の温度を、どうしてと問わずにいられない。

 どうにか口から出すことだけは堪えたけれど。


「あなたの力があれば、姉は地上へ戻れるわ」

「私の? 私なんて何も」


 気持ちの落ち着くまで、幾ばくかそうしていた。そのうち金魚ジンユが言ったのは、早く戻れと急かしたのかもしれない。


「いいえ。何が、と私から言えない。でもあなたにしかできないことがある。姉のためにでなく、破浪ポーランを助けてあげて」


 あの男の名を出されるまでもない。だが出されてはなお、「分かりました」と応じるしかなかった。

 と、気のせいか。金魚ジンユの姿が陽炎のごとく揺らぐ。


「あら、もうここに居られないみたい」

「ええっ? そんな、どうやって戻ればいいか分からないのに」


 どこだかも分からぬこの場所を、彼女はよく知っているようだった。図々しいと言われても、道案内がなくては困る。

 必死さがおかしかったか、金魚ジンユは少し柔らかく笑った。


「大丈夫。案内はそこにあるわ」

「案内がある・・?」


 空いた手の、羨ましいほどに細く長い指。長褲ズボンの物入れを示したので、触れてみる。

 するとそこに、丸い感触があった。


 取り出すと、破浪ポーランに貰った生命玉ホゥチゥだ。いつ入れたか記憶にないが、それより朱に光っているのが不思議だった。


「壊してしまったと思ったのに」

「じゃあ、気をつけて」


 既に金魚ジンユの声は遠ざかっていた。

 行ってしまう。と慌てて見たが、まだ同じ位置に居た。ただし透けた身体が蜃気楼のようで、余計に慌てた。


「か、身体が」

「平気です、ここに居られなくなっただけ。あなたが戻ってくれば、また会えます。まだお別れではありません」

「そうなの?」


 そうして話す間に、金魚ジンユは見えなくなった。最後に「飛龍フェイロン」と呼びかけて。


春海チュンハイを守ってあげてくださいね。灯籠の火は、あなたが持って」

「おう」


 大きな手が灯籠の油皿を拾う。と同時、金魚ジンユの気配が消えた。

 あちらへ帰ったのだ。確証はないが、きっとそうだと感じる。


 言われた通り、生命玉ホゥチゥの導きに従う。玉の中で盛る炎が、勢いを増すほうに。

 それは行列から遠ざかる向きで、行っても良いのか迷った。しかし飛龍フェイロンが先んじて、「問題ねえ」といざなってくれる。


「どうもここらしいぜ」


 不可思議な平面ばかりの景色が、やがて水辺に突き当たった。薄墨色の先は見通せないが、変わらず生命玉ホゥチゥがこっちだと示す。


「う、うん」

「見てるからよ。先に行きな」

「一緒に行かないの?」


 水に入る経験が乏しく、覚悟を決める時間が必要だった。その上に飛龍フェイロンは、一人で行けと心細いことを言う。


「……いや、行くぜ。ただ、実は泳げねえ。春海チュンハイが先に行って、足が着くって分かりゃ安心なんだが」

「そういうことね。わ、分かった。頑張る」


 内緒にしてくれよ、と恥ずかしげに巨漢は笑った。弱々しい油皿の火を、高く持ち上げて。


「行くわ。うん、冷たくも何ともない」


 他ならぬ飛龍フェイロンに頼られ、悪い気はしない。むしろ張り切り、水中へ踏み込む。

 見た目に間違いなく、海か川かへ入っていた。だが濡れた感触はなく、首を傾げつつ。


「その調子だ」


 励ます声が、思いのほか遠い。さっと振り返ると、岸辺がもう二十歩も向こうにある。


「ふ、飛龍フェイロン! 深くないわ、来て!」

「ああ、悪いがオレは行けねえ」

「そんな、何を言ってるの。小龍シャオロンも待ってるのよ!」


 皿のないほうの手を暢気に振って、飛龍フェイロンは別れを告げた。にやり、不敵な笑みに後ろ向きな感情はまるでなく。


「うまいこと言っといてくれ。オレは戻って、行列に並ばなきゃいけねえ。洒掃の釜チンリィフゥのな」


 冥土を訪れた者が、茹でて清められる釜。春海チュンハイも並んだ行列の意味を、ようやく知った。

 ひゅっと背中を、寒気が走る。


「駄目! 来て、早く!」


 立ち籠める薄墨色が打ち消すように、絶叫が届くかも怪しい小声にされた。


「じゃあな。最後に会えて嬉しかったぜ」


 飛龍フェイロンの声も途切れ途切れで、どうにか聞き取れたのはここまでだ。

 戻ろうと思った。が、足が勝手に進む。速い流れが岸から遠ざかり、逆らえなかった。


 じきに、照らした油皿の火も弱まっていく。

 光が薄くなると、飛龍フェイロンの纏う闇が濃くなった。やがて無数の手と化し、いずこかへ連れ去ろうとつかみかかる。


 さすがと言って良いものか、巨漢の闘士は無数の手と渡り合った。

 声が聞こえずとも、雄々しく吼えるのだけは分かる。無数の手を無数の手数で引き千切りながら、春海チュンハイの視界から消え失せた。

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