第85話:終わりの灯

 不養生をしただろうか。どうにも重い身体が、知らず病に冒されているのではと感じ始めた。

 身に纏う布の他、荷物はないのだ。だというのに、鉛の衣を着たように思う。


「ここはどこ? みんな、何を並んでいるの?」


 暑いものを暑い、つらいものをつらいと言っていては、余計に増す。

 意識を逃がすため、問うた。


 横目に見上げると、飛龍フェイロンはこちらを見ない。「ああ」とひと言、僅かながら思案の顔になった。


「……やっぱり聞かなかったんだな」

「何を?」

「入り口でな。上か下か、行き先を決められる」


 歩くのとは反対を、太い指がさした。


「決められるって、勝手に? 誰に?」

「誰、ってのはオレも知らねえ。逆らいようもねえのだけは分かるが」


 言い分に、あまり良くないところらしいと見当をつけた。が、飛龍フェイロンは笑って続ける。


「並んでるのは、順番待ちだ。この先に、くつろげる場所があるんだと」

「これほどの人が? 凄いのね」


 等間隔で並ぶ人々を追い越してきた。数えはしなかったが、十や百の単位でない。

 振り返れば、春海チュンハイの並んだ位置など遥か彼方。前方へ戻っても、くつろぐ場所とやらの影も見えなかった。


「あっ。でもみんな並んでいるなら、こうやって追い越してはいけないのかしら」

「いや、春海チュンハイはそこへ行けねえ。間違って来たってのを訴えりゃ、元の場所へ戻れるだろうぜ。たぶんな」


 訴えを聞く立場の誰かが居るらしい。飛龍フェイロンに出会えて良かった。結果は同じだったか知らないが、不明のまま行くのとはまったく違う。


 ほっと胸を撫で下ろし、またしばらく。並ぶ人の顔以外は変わらぬ景色に、不安が頭をもたげ始めた。

 飛龍フェイロンを疑うわけでないが、本当に着くのか。これほど遠い道のりを、付き合わせて良いのか。


 歩きながら、つま先立ちの要領で先を覗く。してもしなくても、変わりはないが。


「あっ」

「どうした?」

「このまま行けないわ」


 何百人の向こうへ、が見えた。持ち主は列の脇で、何か、誰かを探しているのだろう。

 あちこちを破いた白い衣服。牡丹の模様の美しい灯籠。

 足を止め、逃げるか戻るかを悩む。


「あれに会っちゃまずいのか」

「ええ、たぶん」

「てえと、回り道だな」


 飛龍フェイロンは事情も聞かず、列から離れるほうへすぐに足を向けた。


「いいの?」

「構わねえさ、春海チュンハイのためだ」


 にやり。この男らしい、暑苦しい笑み。


「ありがとう。なるべく早く、また一緒に食事をしましょう。その時は私が奢るから」

「げはは。そいつは楽しみだ」


 回り道と言ったところで、どこまでも平面でしかない。ぐるりと迂回するしかなく、しかも灯籠の見えぬくらい遠くをだ。


 列から離れるに連れ、視界が怪しくなる。煙る薄墨が纏わり、藪を掻くように手で除けた。

 妖しく、艶めかしく、人の手に撫でられる怖気に襲われる。


 また足下も、列の傍ではしっかりとしていた。岩を踏むように硬く、同時に毛皮を滑るように柔らかく。こんな地面であれば、どこまでも行けると思わせた。


 しかし行くほど、泥へ沈む心地がある。目にはしかと足先まで映るのに、埋まりゆく感覚だけが強まった。

 飛龍フェイロンも同じだったのだろう。手を出したのでつかむと、ぐいぐい引っ張ってくれた。


「気づかれたかもしれねえ」

「えっ」


 先を進み、たびたび春海チュンハイを窺ってくれる顔が渋くしかめられた。

 列の行く先を見れば、たしかに。灯籠がこちらへ近づくように思う。


「どうしよう。捕まってはいけないの」

「オレがどうにか——できるか怪しいな」


 空いた手を見つめ、巨漢の口からそんな言葉が洩れる。

 耳を疑ったが、否定もできない。何せあの白い人形の仲間かもしれないのだ。


(人形。そうよ、あの人形)

 ざあっと、脳裏に滝が落ちる。

 ここへ来る前、千の手に招かれたこと、人形と対峙する破浪ポーランたちの姿。

 金魚ジンユのこと。


「駄目よ、あの人は人形の仲間かもしれないの」

「人形って」


 途端、飛龍フェイロンの目に陰が差す。顔色も青く、握った手が震う。


「走れ」

「えっ、ええ」


 きっと出遭い、怖ろしい目を見たのだろう。驚いたが誇りを慮り、何がとは問わなかった。


 ただ、足が重い。これは病でも、気のせいでもない。春海チュンハイだけでなく、飛龍フェイロンもだからだ。

 格好だけは全力で駆ける風なのに、歩くよりのろい。自身が同じ感覚を得ていなければ、何をふざけてと笑っていた。


「お待ちなさい」

「来たわ」


 金魚ジンユの声は柔らかかった。迷宮の入り口で話した時と同じ、優しげな。

 こうして油断をさすのか。そう思うと、不気味さが増す。


破浪ポーラン、助けて)

 どれだけ胸に叫んでも、ここに彼は居ない。


「そちらへ行っては、人の道へ戻れなくなる」


 わけの分からぬことを、としか聞かなかった。普段の春海チュンハイであれば、意味を考えるくらいはしたはずだが。


「早く」


 急かしたとて、飛龍フェイロンにどうにかできることでない。知っていても、何か言わずにおれなかった。


 進まぬ足を呪い、進む。だのに金魚ジンユの声が近づいてくる。

(こんなに走ってるのに)

 先を見ても墨が厚く、進んでいるか分からなくなった。その時、目の前に炎が立つ。


「それ以上、進んではいけません」


 足元に、牡丹の灯籠が転がった。漏れた油が紅蓮の壁を形作る。

 進む方向はない。息と唾を飲み、二人揃って背中へ向きを変える。


 飛龍フェイロンの長い腕であれば届く距離。そこに金魚ジンユは、泣き出しそうな笑みで立っていた。

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