第84話:薄墨の中
——ふと。
ぼんやり、何もしない自身に気づいた。
(何も……私、何をしてた?)
記憶を手繰る。しかし思い出すべきこと、物、への手蔓がない。
目にも。ただただ黒だけが見え、まぶたを閉じているのかもと思う。
見開こうとして、やり方が分からなかった。
どこにどう力を籠めれば視覚を得られるか。深く考えようとして、何を考えていたかが分からなくなる。
(もういいわ)
足の下に何を踏んでいるか。あるいは、いずこかへ寝そべっているか。そんなことさえ知るのが億劫だった。
もはや考えることさえ無駄だ。悟り、意識を棄てようとした。
薄れた感情を強いて表すとすれば、おやすみなさいと言う気持ちに近かった。
「うっ」
ぴり、と痺れる感覚がした。泥に浮かぶような、自分とそれ以外も曖昧な中。
不意に。口いっぱいの山椒を噛み潰したかの衝撃が、
「ここ、どこ?」
ちかちかと火花散る視界に目をこらす。
薄墨に浸かったと錯覚する、どこまでもはっきりしない景色。
足下に地面らしき感触はあった。目に見て正体も分からないが、ともかく歩くのに支障はない。
歩くと言って、どこへ。とは悩まず、前へ進んだ。
先頭はどこへ続くか、知りたかった。並んでいる他の者に、聞こうとは思わない。
男も女も、年頃もばらばらの人々は、等しく前を向いていた。
見て、はない。おそらく。
行列の伸びる元のほうへ、行かねばならぬから顔と身体が向いている。それだけのことだ。
問うたところで答えはない。問うてみるのが、少し怖い。
いつになく重い足を、
行っても、行っても、どれだけ進んでも列は続く。まったく凹凸のない、不自然な地面もだ。
遠く眺めたところで、人の列が白い線を描くのみ。それでも辿る他に当てはない。
「ねえ——」
どれだけ進んだか。疲れも空腹もないまま、丸一日も経った気がする。
列の中に、ひたすら目立つ巨漢を認めた。
剃った頭に、肩まで捲った袖。何より隆々とした筋肉が、似た誰かという可能性を失わす。
「ねえ、
双龍兄弟の兄。採れたての岩と言われた、ごつごつとした風貌は間違いなかった。
けれども問いかけの形で呼ぶ。あの暑苦しいほどの覇気と存在感が、まるで見えない。
「ねえ、
離れたところから、一歩ずつ。近寄るたびに呼びかける。
聞こえぬふりで、頃合いに
いよいよ丸太のような腕に触れ、揺らした。生半では意味がないと思い、転ばす勢いで。
「くうっ」
呻いたのは
腕にしがみつくのも間に合わず、膝を突く。
「おい
「ふ、
見上げれば、恐ろしげながらも優しい笑みがある。
すっと手が伸び、つかむと引っ張りあげられた。また力の抜ける感覚はあったが、目まいのするほどではない。
「まさか
しっかりと立つのを待って、手が離れる。
「いや、違うらしい」
「何のこと?」
「げははは、気にするな。しかしどうしてこんなところに居る」
豪快な笑声を、懐かしいと思った。
「分からないの。私、ええと何をしてたのかしら……」
「困ったもんだ。帰り道は?」
「いえ、それも」
話しぶりから、
ならば付き添ってもらえないか。と思うものの、言い出せない。何の列か知らないが、用があるから並んでいるのだろう。
「そうだ、
「置いてきちまった。探してるだろうが、仕方ねえ。まあ、じきに追いつくだろうぜ」
ごつごつした頭が、列の後ろを向く。遥か遠くを見通すように。
しかしほんの数拍で、こちらへ戻った。
「それより
「——そうだと思う。でも思い出せなくて」
「
地名でなく、人名とは分かる。だが誰のことか、しばし悩んだ。
知らないと思うのに、それは誰かと尋ねられない。言ってはならぬと、喉へ潜む誰かが押し戻すように。
「
何度も何度も、繰り返しに呟く。数えきれぬくらいの後、「あっ」と突然に閃いた。
「そうよ
なぜ一緒に居たか。それはどこか。分からないことばかりだが、まずは彼だ。
どうして忘れていたか、不思議でしようがない。思い出した途端、こんなにも強く会いたいと感じるのに。
「
「紗? なんだったかしら」
鏡はない。手を伸ばし、己の頭の上を手探りにした。
「分からねえなら、まあいい。帰り道、オレも一緒に探してやるよ」
「いいの?」
並んでいなくて良いのか。問う前に
「また並びなおしだが、どうってこたねえ」
「ごめんなさい。ありがとう」
にやと笑う巨漢の厚意を、無下にはできない。右も左も不明な場所で、ありがたいのも事実。
早速歩き始めた
それは列の続く先頭の方向へ。
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