第81話:交叉する声

『……げて』


 きん、と脳天を突き抜くような音がした。耳を押さえ、蹲らねばならぬほど。


春海チュンハイ!」


 父との会話を放り、破浪ポーランが駆け寄る。


『逃げ、て』


 また。頭の芯に鐘が据えられ、強く打ち鳴らされたかに響く。


『逃げて』


 ぎゅっと耳を塞ぎ、肩を支える破浪ポーランの声も遠い。だというのに、誰かが呼びかける。

(誰か……そうよ、誰?)


『逃げて。早く』


 苦痛が先に立ち、人間の言葉と気づかなかった。

 逃げろと言っている。そう理解すると、鐘の鳴りが少し弱まった。


『私は破蕾ポーレイ。誰か気づいて』


 必死に叫ぶ女性の声。


破蕾ポーレイ——?」


 食いしばった歯の隙間から、聞こえた名を呼ぶ。聞き違い、勘違いでなければ、知った名前だ。


春海チュンハイ、どうした?」


 伏せた視線に、破浪ポーランが割り込む。案じた目が、母がどうしたとも問うている。


「聞こえるの。声が」


『逃げて、可愛いお嬢さん。私の子を連れて、愛しい人を連れて』


「逃げてって。あなたとお父様に、逃げるように言ってらっしゃるわ」


 耳鳴りのようで煩わしい感覚は続いた。だが堪えられる。

 彼の母の声を、まして逃げろなどと。そんな言葉を聞いて、拘らうほどの苦痛でない。


「逃げろって、あの人形から?」

「だと思うけど、逃げろとしか」

「母さんが——?」


 動かぬままの人形を、破浪ポーランは振り返った。

 仮に拘束したものを、腕は腕、脚は脚と別個に括られる。もちろんそれは黒蔡ヘイツァイ一家の手で。


 背負子で運ぶ、薪束のようになりつつあった。

 危険な相手だが、さすがにこれではと思う。縛る縄は、金属鎧の白蔡パイツァイがぶら下がれるものだ。


『ジーニャの言うことを聞いては駄目。早く逃げて、私が抑えるのももう——』


 ジーニャという名はジンの名付けになく、当て嵌められる文字がなかった。

 聞こえたまま、似た音を探すと


金魚ジンユ?」


という名が思い当たった。

 他にも候補を挙げられるが、春海チュンハイの知る者の名にはならない。


「お母様が、金魚ジンユの言うことを聞くなって」


 言いつつ、灯籠を提げた女の姿を探す。と、広間の入り口で人形を眺めていた。

 悲しげに歪めた表情は必死そのもので、陥れようとかいう邪念を想像するのは難しい。


「ええ? そう言われても、道案内してくれてるだけだし」


 そうだ。言うことを聞いているのは、むしろ彼女のほう。


『早く』


 戸惑う春海チュンハイに、破蕾ポーレイを名乗る声は急かす。

 だがいくら言われても、判断の基準がない。これが本当に破蕾ポーレイなのか。だとして言う通りに人形を置き、逃げて良いものか。


「お、お父様!」


 決められるのは偉浪ウェイランだけだ。棺桶を覗けば、「あァ?」と太い声が唸る。

 大蜥蜴の生き血をたらふく飲み、眼に宿った光が爛々を越してぎらぎらしていた。


破蕾ポーレイだと?」

「え、その。はい」


 きつい口調に、叱られた心地がする。声を萎ませた程度で、手加減もされない。


「本物の破蕾ポーレイってんなら、黙って見てやがれ。お前の息子は使いもんになる」


 飛ばされた唾を拭う。それでも歴戦の貫禄を湛えた目が、見つめ続ける。


「なんで俺に言わねェ……」


 小さく続いた声は、きっと破浪ポーランには聞こえなかった。

 ゆえに偉浪ウェイランが顔を背けるまで、春海チュンハイから視線を動かすことはしない。


「お前たち。いつまでそこで、くっちゃべってるんだい」


 苛立つ烏鴉ウヤの声。偉浪ウェイランの後ろ頭から、黒蔡ヘイツァイ一家へ目を移した。


 妻が夫の背へ、束ねた人形の部品を負わせるところだ。白蔡パイツァイの背にも、もう三束が括られていた。残りをひと束ずつ、全員が持てば勘定が合う。


「悪い。俺も持つ」


 さっと破浪ポーランが立ち、荷を引き受けに向かった。「父さんを頼むよ」と、こっそり言って。


 言われるまでもない。どれほどか想像も及ばないが、積み重なった思いが渦と化していることだろう。

 そんな男を。まして破浪ポーランの父親を、放ってはおけなかった。


 ただ、別に一つだけ気になることもある。

 大したことでない。白蔡パイツァイの負う束から、人形の手が飛び出している。

 指の股に縄が食い込み、動きもすまい。

 だが運び歩くうちに振動で緩まないか、それが心配だ。


白蔡パイツァイ、荷を——」


 薪なら、撒き散らしても拾えばいい。しかしあれは、危険極まりないものだ。

 だから迷わず、直すように言おうとした。


 かしゃん。

 距離があっても、たしかに聞こえた。そして見えた。

 指が一本、外れて落ちた。


(ううん。外れたというより、自分で抜け出た?)

 その印象が何を意味するか、次の瞬間に春海チュンハイは悟った。同時に叫ぶこともした。


「逃げて!」


 どこへ危機が在るか指さすと、全員の目が倣う。指一本と言えど、春海チュンハイの手よりも長い。

 発見し、身構えるまで。いずれ劣らぬ腕利きばかり、まばたきの合間よりも短かった。


 けれど、足らない。

 武器が出揃った時、既に指は地面になかった。青白い光線のごとく迸り、烏鴉ウヤの肩をかすめる。

 人間の腕が、鮮血を撒き散らし地面に落ちる。それは人形の指が落ちるのとは、比べ物にならぬ重い音がした。

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