第79話:心からの言葉

「いえ、私も金魚ジンユも……」


 黒蔡ヘイツァイ夫妻の言うような悪巧みはない。やろうとしても不可能だ。

 という、既に告げた事実を信じさす言葉が浮かばない。


 声が萎み、刺々しい沈黙が訪れる。

 が、すぐに打ち破られた。突然に叫び始めた、破浪ポーランによって。


「ど、どうしたの」


 野生の遠吠えとそっくりだ。聞くのは二度目で、彼の友人を呼ぼうというのは分かる。

 しかし空腹を押し、終いに声をかすれさせてまで、あの赤犬に何の用があるのだろう。


 息を整える破浪ポーランを窺いつつ、どこから来るかと視線を泳がせた。

 しかし赤犬は姿を見せない。


黒蔡ヘイツァイ、父さんを連れてくれてるのは感謝する。でも、そう春海チュンハイを責めないでくれ。彼女は間違うことをしても、嘘は言わないよ」

「ハッ、偉浪ウェイランを運ぶと言ったのはうちの子だよ。まあどれもこれも、何だっていいけどねえ。戻り方さえ教えてくれればさ」


 いつも背を丸める黒蔡ヘイツァイの苛々とした声は、酷く湿って聞こえた。破浪ポーランへの返答だが春海チュンハイに向けられたように思う。

 翻訳するに、地上へ戻れたら覚悟していろと。


「戻り方は俺にも分からないよ。でも代わりと言っちゃなんだけど、手柄は要らないかい?」

「手柄ぁ?」


 何を見え透いたことを、と嘲るのが半分。魂胆は何か、と探るのが半分。おそらくそういう塩梅で、黒蔡ヘイツァイは答えた。


「この迷宮を牛耳ってる奴を倒そうと思う。近衛になれるかは知らないけど、かなりの名誉を貰えるはずだろ?」

「ぽ、破浪ポーラン!」


 迷宮を牛耳る者を倒す。とは、鬼徳神ゲドを討つという意味になる。だがこの場合、違うだろう。彼の母の姿を持つ、あの人形を指すに違いない。


 黒蔡ヘイツァイ一家を前に、そうとは言えなかった。しかし彼の口もとに微笑みの欠片が宿り、「いいんだ」と。

 これではもう、何も言えない。


「何か、わけありらしいねえ。まあでも? あたしらは名誉なんて要らないんだ、欲しいのは銭だけだよ。他というと、銭を生むお役目くらいかね」

「長い付き合いだ、それくらい知ってる。だから、あんたたちのいいようにしていいよ」


 皇帝の名入りで出されたお触れは、迷宮の生まれた理由を突き止めろというもの。

 巣食う魔物の首領——に当たるかも定かでないが、そんなものを倒して褒美に繋がるかは不明だ。


 話にならない、と鼻で笑われた。だが続けた破浪ポーランの言葉には、「いいように?」と食いつく。


「俺たちは手伝っただけ。いや、見てただけってことでもいい。何か見つけても、名誉とか銭儲けにしかならない物は要らない」

「その代わりに、倒すのを手伝えってのかい」


 黒蔡ヘイツァイの目に見えぬ算盤そろばんが弾かれる。その間も破浪ポーラン春海チュンハイとを交互に、視線で舐め回す。


「もしやるなら、主役はうちの子だ。お前たちは命からがら、白蔡パイツァイに救われる」

「いいね、そうしよう」


 腕に覚えのある者が集っても、多くは死ぬか、浅層をうろついて終わる。そんな中、一人の若強者が首領を討ち取った。

 なるほど皇帝も召し抱えたいと言い出す英雄譚だ。


 しかしすぐさま、破浪ポーランは二つ返事だったというのに。黒蔡ヘイツァイは「いや」と首を横に振った。


「名誉と銭儲け以外に、あたしには想像もつかないけどね。何かあるって言ってるようなものだよ」


 話がうますぎる。黒蔡ヘイツァイはそう警戒したらしく、視線を切って妻のところへ向かう。

 戻るための通路が開かないか、烏鴉ウヤはまだ壁を撫で回していた。


 きっと破浪ポーランは、思った通りを言っている。母親に関して、伏せただけで。

 春海チュンハイが援護を受け持っても、利はあるまい。それ以前に、彼の決断を受け止められていなかったが。


 黒蔡ヘイツァイは妻の肩を抱き、優しく押し退けた。代わって、戻る道を開かせようと試みる。

 烏鴉ウヤは傍らで、夫の手足が少し動くたびに自身の腕を振る。声が聞こえなくとも、景気づけの励ましと分かった。


 白蔡パイツァイは十三階層への扉の前で立ち尽くした。どんな経緯があれ、先んじられたのが許せないのかもしれない。

 お世辞にも賢いとは言えないが、純粋な思考で何を思うのか。これもまた春海チュンハイには察せない。


 破浪ポーランも継ぐ言葉がなく、会話らしい会話は途絶えた。

 しばらく。春海チュンハイには永遠かと感じる長い時間の後、一人が沈黙を破った。


「頼む。俺の馬鹿息子の言う通りにしてやってくれ」


 棺桶。声の在り処に、全員が目を向けた。

 いつもの苛ついた、面倒げな言葉でない。頼むと言うに相応しい、粛々と低い声。

 素より傍に居た春海チュンハイだけが、一すじの滴を目に映す。


「俺の女が。破浪ポーランの母親が、喰われちまった。もしこのまま迷宮へ居残るなら、息子も喰う。そう言われた」

「父さん——だから迷宮に飽きたって?」


 まばらな足音で、棺桶の向こうへ破浪ポーランも歩み寄る。縁へかけた指に、力が籠もっていた。


破蕾ポーレイの子まで取られちまったら。俺ァ、どれだけ間抜けなんだ」


 青白い顔の女と偉浪ウェイランは、何か話していた。

 その時とは分かるが、おかしい。


 迷宮に居残らぬのなら、破浪ポーランを喰わない。つまり殺さないということになる。

 鬼徳神ゲドの拵えたはずの、人形の魔物がだ。


「へえ。迷宮ここで随分と変わったものを見てきたけど、今日のが一番だねえ」

「そうだねえ、あんた。これを街のみんなに言ったら、強面の偉浪ウェイランも形無しだよ」


 夫婦で厭らしく笑い、その上にこそこそと耳打ちし合う。

 これほどの頼みを。いや聞けないというだけなら仕方がない。なぜこれほどの覚悟を、貶して笑えるのか。


 でも私が言うなんて、と立場を考えたはずだった。けれども現実には、春海チュンハイの怒声が迷宮を震わせた。


「あなたたち、人間じゃないわ! どうして笑えるの。お父様も破浪ポーランも、あなたたちにしか頼めないのよ」

「うるさいよ小娘。世の中、できることとできないことが——」


「無理なら無理と断ればいいでしょう! なぜその上に貶す必要があるのよ!」


 きっ、と。嗚咽と共に睨む目を、白蔡パイツァイへ向けた。


「ねえ。あなたも同じ? きっと破浪ポーランが頼まれる立場なら、嫌とは言わないわ」


 無茶を言っている。春海チュンハイの言えた言葉でないのも承知していた。

 立ち位置を入れ替えての話は、白蔡パイツァイに伝わらなかったかもしれない。それでも言わずにおれなかった。


「え、ええ?」


 案の定、戸惑う巨漢。泳ぐ視線が春海チュンハイから破浪ポーラン、自身の親へ向かう。


「と、父ちゃん。母ちゃん、オレ——」

「ああ、分かってる。可愛い息子の言いたいことは、親のあたしらが何でもね」


 子とは違い、夫妻は平然としていた。罵り合いなど、数えきれぬほどこなしてきたろう。

 やれやれとため息の後、また元通りに厭らしく笑う。


(この人たち、本当に人間じゃないの?)

 そう思うくらい、春海チュンハイには理解の届かぬ相手がそこへ居る。


「言い分は分かるよ。ああ、あたしらも人間の端くれさ。助けてやりたいって心から思う。でもね、もう食料がないんだ。このまま行ったって無駄死にするだけさ」


 食うものを食わねば無駄死に、とはその通りだ。が、おそらく。戻る方法が分からないと、まだ信用していない。


 もう話す言葉がない。話すべきでない

ただ死にに行くだけでも自分は付き添う、と春海チュンハイは声を発しかけた。


 けれど先んじて大きな音を立てた者が居る。十二階層の入り口からこの大広間へ続く扉が開いたのだ。

 破浪ポーランにしろ白蔡パイツァイにしろ、かなりの力を籠めてゆっくりと開く重い扉が勢いよく。


 現れたのは、全身に炎を纏ったような獣。赤い優雅な巨躯を踊らせ、咥えた大蜥蜴をぶるっと震わす。


「食料、届いたよ」


 友人、破浪ポーランの声に合わせ、フォウは唸る。

 待たせたな、と不敵に笑って見えた。

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