第十幕:命の数え方

第78話:閉ざされた退路

 金魚ジンユの後ろを行くこと、少々。百を数える間もなかった。階段と、その頂上に鎮座する、覚えのある扉が見えた。


 扉の目の前で、金魚ジンユは道を譲る。

 横目にしつつ、朱の強い褐色に触れたのは破浪ポーラン。「くっ」と力を籠めると、ゆっくり重々しく扉は開く。


 十二階層へ下りた時と同じような、大広間と繋がる。上る階段はなく、すぐに違うと分かったが。


「無事でお戻りとはね。どんなまじないをしたんだい?」


 およそ真ん中へ座り込む人影が三つ。顔を合わせ、すぐさま声を上げたのはそのうちの女だ。


 けれど烏鴉ウヤの問いに答える前に、のそり。白蔡パイツァイが立ち、こちらへやって来る。


破浪ポーラン。十三階層に行ったのか」

「そうらしい」


 長身の破浪ポーランが顔を上向かせ、答える。見下ろして睨む白蔡パイツァイの目が、春海チュンハイへ向くことは瞬間もなかった。


「お父様」


 白蔡パイツァイの座っていた位置に、棺桶が放られている。

 駆け寄り、蓋を開けた。目を瞑る偉浪ウェイランは答えない。


「お父様? お父様、お父様」

「——うるせェ」


 まさか、と肩を揺する。するとようやく、面倒げな返事があった。

 ただしそれでも、目を開けてはくれない。平気そうに声を装っているけれども、体力の消耗が限界に近いのだろう。


「あの、地上へ戻ったらお返しします。何か食べる物を分けていただけませんか」


 振り返り、黒蔡ヘイツァイに頼む。言う前から重篤な仏頂面だったが、なおさら苦み走った声が返る。


「ないね。お前が勝手に居なくなったおかげで、あたしらもずっと足止め喰らってたんだ。その貸しだけでも、すぐに払ってもらいたいくらいだよ」

「足止め?」

「そうだよ。知っての通り、この部屋から出られない。すると食う以外にやることはない」


 たしかに十三階層への扉以外には、出口が見当たらなかった。

 しかし彼らは、ここに千の手がいると知っていた。ならば扉が開かなかったとして、他に帰り道があるはず。

 知っての通りと言われても、それは春海チュンハイに分からない。


「千の手には対処されたのですね」

「はあ? お前が細工をしていったんだろう。白々しいお芝居は要らないよ」

「わ、私が細工を?」


 なぜ責められるか、言い分が理解できなかった。「どういうことでしょう」と問い重ねれば、唾を吐きかけられた。

 代わりに黒蔡ヘイツァイは、妻に何ごとか言った。烏鴉ウヤも憎々しげに睨みつつ、上層に近い壁へ歩み寄る。


「ああ、くそ。やっぱり駄目だよあんた」


 大広間の隅。筋張った細い腕が、脈動する壁を殴りつけた。戻る仕掛けがあるのだろう、蹴ったり跳ねたりを烏鴉ウヤは繰り返す。


「千の手が居ねェのさ。どうも勝手が違う」


 ぼそと呟く偉浪ウェイランに、誰より早く破浪ポーランが答えた。


「千の手が? ——ああ、そういうことか。俺も春海チュンハイも、いきなり下へ落とされたんだ。千の手を倒しちゃいないよ」


 そういう、とはどういうことか。首をひねっていると、親切な美丈夫が教えてくれた。


「つまり春海チュンハイが、帰り道を使えなくしたってことだよ。蟲をけしかけられた仕返しにね」

「えっ? そんなこと、できるはずないじゃない」

「分かってる。でも正規にここを通り抜けたと考えたら、他に居ないって理屈になる」


 聞いただけでは理解が間に合わなかった。口の中で繰り返し、ようやく。


「私が白蔡パイツァイを置き去りにして、もし追いかけてきたら閉じ込められるように細工したって言うの?」

「そう言ってる」

「できるわけないじゃない。そんなことをする理由もないわ」


 俺は信じられるけどね。と破浪ポーランに言われても解決にならない。もう一度、黒蔡ヘイツァイに向き直る。


「違います。私に迷宮の仕掛けをどうこうなんて——そう、迷宮の主に呼ばれたんです。鬼徳神ゲドに」

「おやおや、随分と大物を出したもんだ」


 憮然として、こちらを見ない。馬鹿にした口調が、まるで信用しないと物語る。たしかに神様に会ったとは、立場を逆にすれば春海チュンハイとて信じまい。

 ただ黒蔡ヘイツァイは「まあ、今さらだよ」と続けた。


破浪ポーランを拾ったんだ、戻るんだろう。お前自身の帰り道くらい、用意してるはずだからねえ」


 袖口で鎖を鳴らし、腰を上げる。これ以上の何かがあれば許さない、そういう意味だ。

 当然に今の段階でも、地上へ戻れると確証がつけば何をされるか。


「もしかして、その女かい?」


 黒蔡ヘイツァイの指が、金魚ジンユへ向く。長く引き出されていた鎖は、もう見えない。


「いえ金魚ジンユは……」

金魚ジンユ? 見ない女だしねえ、お前の悪巧みに関わってるのは間違いないさ。後で覚えておきなよ」


 扉の脇で黙ったまま、見つめる金魚ジンユ黒蔡ヘイツァイは睨む。


「見ない女って——」

「そうだよ、お前の連れだろう? こんな女、見たこともない。それより帰りはどこだい、早くしなよ」


 偉浪ウェイランには及ばずとも、長く迷宮へ潜り続けた黒蔡ヘイツァイ。その口が、金魚ジンユを知らないと言った。

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