余聞

第77話:遊牧の姉妹

 ジンという国は、途轍もなく広い。仮に徒歩で縦断するなら、少なくとも半年ほどを必要とした。東西を横断するなら、さらにひと月を足さねばなるまい。

 地勢、天候、人との関わり。そういうもので悶着があれば、さらにさらに。


 東の海沿いに在る杭港ハンガンから、一路西へ。順調に七ヶ月半を歩めば、見渡す限りの草原にぶつかる。

 皇都や他の都市とは離れすぎ、近隣の少数部族の街とも方向が異なった。


 ゆえにどんな土地か語るとすれば、その少数部族や西の小国とジンが小競り合いをする時の戦場。としか表現のしようがなかった。

 それはもちろん権力を握る者の視点で、この土地へ住む者にはまた違う見方があるけれども。


「ポーレイ姉さん、残りを貰ってきたわ」


 細い支柱の一本を頼りにした、布張りの住居がまばらに立つ。

 大小さまざまに、二十足らず。小さな物は二人が寝そべってようやく。大きな物でも三、四倍というところ。

 そのうちの一つ。小さな住居の入り口の幕を、若い女が捲った。 


「ありがとう。洩れはない?」

「ええ、もちろん」


 幕内のポーレイと、訪ねた妹。草原の只中に住む者として、どちらも過ぎて華奢だった。

 陽射しがなければ黒に見える、濃い褐色の髪。仲間の出自ルーツを雄弁に語る、青い瞳。


 よく似た姉妹は微笑み合い、妹の手にした髪束を姉が受け取った。

 地面へ敷いた布に姉は座り、動かしていた機織りの手を止める。


「ところでジーニャ。そっちは?」


 一本たりと失くさぬよう。姉は注意深く、髪を布に横たわす。

 それからジーニャの、残るもう一方の手を見つめる。そちらには麻袋が提がっていた。


「長様の幕飾りを、新しくしてほしいんですって」

「構わないけど」


 布を織る道具も糸も、この幕内にある。そこへ何を持ち帰ったか、姉は首を傾げた。

 姉を見て、妹も苦笑を浮かべた。だからと出し惜しみをすることはない。麻袋から、折り畳んだ灯籠を取り出す。


ジンの品物ね」

「ええ、そう。新しく来た偉い人が、牡丹を好きなんですって。だから入り口に飾っておかなきゃいけないそうよ」


 草原に最も近いジンの城から、姉妹の集落へ見回りの訪れることがあった。年に一度あるかないかの、気紛れなものだ。


「ご機嫌を取らなきゃいけなくなった、ということ?」

「いいえ。そうならないよう、先にと聞いたわ」


 図案の参考として、姉は灯籠を受け取る。手を伸ばすのに「ほっ」と出た声がため息だったかは、きっと当人にも分からない。


「こんな半端なところへ居ないで、もっと西へ移ればいいのに。羊もそのほうが喜ぶわ」


 昨年の同じ時期も、およそ同じ場所へ移り住んだ。

 集落の皆で飼う羊が草を食い尽くせば、また次の土地へ動く。姉妹はそうして暮らしてきた。


 それでも毎年繰り返すためか、昨今は草が痩せたように思われた。妹の言葉はそのことで、ジンから離れた北西へ行けば違おうと言うのだ。


「交易路から離れたら、紗が作れなくなるわ」

「そうだけど」

「大丈夫よ、長様も兼ね合いを考えているんでしょう。本当にみんなが危ういとなったら、暮らし方を変えるなんてすぐよ」


 何ごとも、決定は集落の全員の同意を必要とする。その元になる案を考えるのが、長の仕事だ。

 金や銀を手に入れられる、交易路の近く。離れれば暮らしが貧しくなるのは、妹にも理解は容易のはずだった。


「それより明日か明後日かで、これは終わるの。牡丹を編むための毛糸をお願いね」


 姉の目が機織りに向き、倣った妹の目は糸巻きに向く。

 妹の紡いだ糸で、姉が布を織る。遊牧の集落にあって、それが姉妹の役割りだった。


 ◆◇◆


 予告の通り、二日後に紗ができあがった。珍しい、青い染料で染めた絹糸の。

 姉妹と仲間たちの暮らしの中、綿と麻は手に入る。しかし絹糸は、砂漠を越える強者の行商人から仕入れるしかない。


 姉の織った絹生地は高く売れ、集落の暮らしを豊かにした。

 また別に、集落に住む者の髪を織り込んで拵える生地もあった。男も女も、用いて髪を覆うことで魔除けとする。

 織り上がった紗は後者だ。


 さっそく、長へ報告に向かう。狩りをしても、ただの拾い物でも、まずは長に集める。

 すると皆が公平になるよう、長が分け与えてくれる。それが掟だった。


「長様、魔除けの紗が上がりました」


 一番に大きな幕の前。人数分の紗を二人で抱え、呼びかける。

 と、中から話し声が聞こえた。


「どういうことだ? 最優先と聞いたはずだが、我らの聞き違いかな」


 馴染みのない男の声が、明らかに脅しの風を孕む。

 何ごとだろう。囁き、姉妹は顔を見合わせた。すると慌てて、長の妻が幕から顔を出した。


「あの——」


 何かあったのか。問おうとした妹の口を、長の妻は塞ぐ。

 たしか四十過ぎ。常には柔らかな笑みを湛える頬が、固く強張っていた。


 罅割れた指が向こうへ行けと示し、幕から離れようとする。だが、「待て」と先の男の声が低く唸る。


 長の妻があたふたとしたが、どうもする暇がなかった。直ちに幕が捲られ、胸当てを着けた男が姿を見せる。


「なるほど、見事な紗だ」


 追って出てきた長を振り返り、男は皮肉に笑む。

 誰だろう。という姉妹それぞれの疑問には、男自身が答えた。


「我が軍団の指揮官に捧ぐ、一枚の織り物よりも。商売が優先と、そういうことだな」

「いえ、そうではありません。これは我らが仲間たちの魔除けの品。この紗がなければ、家の外へ出ることも叶いません」


 長の弁明に嘘はない。いまだ禿のない総白髪を揺らし、懸命に訴えた。

 しかしジンの兵士らしい男は、鼻で笑う。


「既にあるではないか。お前も、お前の妻も、この娘たちも」


 それぞれの頭を、桃色の紗が覆っている。

 当然に姉の織った生地だが、魔除けはおよそ一年ごとに取り替えることとなっていた。見た目に使えるかは問題でない。


 ただ、急ぎがあるなら順番を差し替えるくらいは可能だった。なぜ長がそうしなかったか、姉妹に疑問が残る。


「そ、それはそうでございますが。指揮官様のお越しは、まだまだ先と」

「うるさい、それが何の言いわけになる。叛乱の兆しありと報告せざるを得ん、覚悟しておけ」


 言い捨て、男とその連れは去った。追い縋る長を蹴りつけ、蹲らせ。


「長様、ごめんなさい。私たちが」

「突然の来訪だ、仕方がないよ。それに新しい指揮官様というのが、どうもきな臭い。一つ場所に留まらん、儂らが気に食わんのだろう」


 引き起こそうとした腕が折れていた。それでも長は、不甲斐ないと己を責める。


「明日にも動いたほうがいいのかもしれん。今宵の飯は、皆で火を囲むとしよう」


 重大な。あるいは喫緊の事態は、集落の全員が集まって話す。話になるかは別として、幼い子でも。


 魔除けができあがったのは、すぐに対処すべしという知らせかもしれない。長はそう言って、紗を全員に配るよう姉妹に頼んだ。

 もちろん、集合せよと伝えるのも含め。


 ポーレイとジーニャ。姉妹の集落を野盗の群れが襲ったのは、この夜のことだ。

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