第76話:冥土の案内人

(これは食べられない——わね)

 半ば以上、本気で考えた。食料として本来の意味を果たさずとも、腹を膨れさすだけでもと。


 しかしそれなら、他に候補はある。何よりそんな無謀をして、腹を壊せば元も子もない。


「それは?」

「食べられないわ」


 じっと眺めていたからか、破浪ポーランが覗く。僅かも首を動かさず、視線だけで。


「もちろんだよ。どんなに腹が減ったって、布を食おうなんて奴はいないさ」

「そ、そうよね。それにこれは、金魚ジンユに貰ったの。飾り布よ」

「へえ——」


 彼の眼に疲労が濃い。

 偉浪ウェイラン小龍シャオロンよりはましだが、食う物もないではいずれ同じ。


 飾り布がどういう物か、思い至ってはいまい。春海チュンハイも人のことを言えないが、服飾に拘る男でないはず。

 それでも口角を持ち上げてくれる優しさが温かい。この男に、何かしてやりたいと思う。


(私が先に死ねば、屍を食べてくれたっていいんだけど。そうよ、腕の一本も切り落とせば、待つ必要もないわ)

 紗を持つ我が手を、肩までしげしげと眺める。と、すぐ。怪訝に問われた。


「怪我? 大丈夫かい」

「い、いいえ。食いでのなさそうな腕と思っただけ」


 ごまかそうとしたはずが、ほぼ考えていたままを口走った。

 まともな思考を失いかけている。頬を叩き、正気を呼んだ。


「そうかな。あまり痩せすぎると心配だし、肥えすぎると不自由そうだ。春海チュンハイはちょうどいいと思うよ、可愛らしいし」

「子供っぽいってことね。きちんと髪を纏めれば、少しは金魚ジンユみたいになるかしらね」


 迷宮の入り口で、荒くれどもだけに見せるのはもったいない女性。

 紅の着物の艶やかな、それでいて鼻につく風もなく似合っていた。


 ああもなれば、洒落気も楽しかろう。だが僧院の修行とは勝手が違いすぎて、踏み込むのを先延ばしにしてきた領分だ。


 それでも彼なら、悪しざまには言うまい。気まぐれのおふざけなら、やって見せても恥ずかしくないはずだ。


「こうして使うの」


 縛ってあるだけの後ろ髪を取り、巻き上げつつ束ねた。

 丸くした上に紗をかぶせ、つけ根を紐で括る。愛想のない麻紐だが、お遊びには良かろう。

 横顔が見えるよう横向きに、さらには視線もあらぬほうへ投げた。


「お……」


 急に腹を下したか。そう思わすうめき声がして、しばし。否も応も破浪ポーランの言葉はない。

 そっぽを向く間に、まさかどこかへ行ってしまったか。


 などとあり得ないが、意識してしまった不安を拭うのは難しい。

 最も迅速かつ効果的な対処として、彼を振り向く。幸いに破浪ポーランは、そこへ居た。


破浪ポーラン?」

「……いい」

「いい?」


 じっと、力の籠もる視線が春海チュンハイに浴びせられる。見返して問うても生返事で、思わず目を逸らした。


「あれ、誰か——」


 まっすぐな通路は薄暗いものの、遠く先まで朧に照らされている。ゆえに破浪ポーラン黒蔡ヘイツァイ一家も、この地下迷宮で灯りを携えない。


 しかし今、数十歩の先にが見えた。腰高に提げる、持ち主の姿もぼんやりと。

 その誰かは、こちらへ来るようだった。破浪ポーランの顔を強引に向かせると、表情に緊張が戻る。


「まさかあれって」


 近づくにつれ、白い衣服を纏う姿がはっきりとした。

 女だ。ジンの民の着物と異なる、頭からすっぽりとかぶる格好の服。ひらひらと揺れる裾の、どこもかしこもが裂けていた。


 覗く脚、短い袖の腕。真白の肌は血で汚れ、どれほど酷い目にあったかと思う。痛々しく、眼に映すのさえ申しわけない気がした。


 けれども一つ、見覚えがある。女の持つ灯りは布張りの灯籠だった。桃色の地に紅色の牡丹。


金魚ジンユだ」


 想定した候補と同じ名を、破浪ポーランも言った。

 深く呼吸して、彼は立つ。春海チュンハイの立ち上がるのに、腰へ手を添えるのも忘れなかった。


「——ねえ、どうしてあなたがここに?」


 三、四歩の前へ彼女は足を止めた。濃い褐色の髪が、だらしなく腰下まで垂れる。

 間違いなくそこへ居る。少なくとも春海チュンハイの目には、そうとしか見えない。

 しかし返事はなかった。今にも涙を零しそうに、薄く笑うだけで。


金魚ジンユなんでしょう?」


 幻に問いかけているのか。これも迷宮の仕掛けか。あれこれと余計な勘繰りをさておき、一歩踏み出した。

 すると女は頷く。ゆったりとした動作で、いかにもと。


「だってここは——それにその格好」


 問いながら、もはやそうだろうと確信する。金魚ジンユはやはり、生きた人間でない。


 悲しげに吐息を落とす素振り。己の衣服の端を握り、そっと広げる。

 何をしても、彼女から音が聞こえない。色付きの影絵を見るようにだ。


「お話、できないのね」


 申しわけない、ということだろう。金魚ジンユは胸に手を当て、少しばかり頭を下げる。

 つんとした熱い息が、春海チュンハイの鼻の奥を満たす。手で押さえ、彼女の来たのとは逆の方向へ顔を逃がした。


金魚ジンユ、こんなところまでどうした?」


 代わって破浪ポーランが問うと、彼女の灯籠が持ち上げられた。


「道を案内してくれる、のか?」


 こくり、また頷いた。

 今度は灯籠を、もと来たほうへ。それともこっちか? と、春海チュンハイたちの背の側へ。


「十二階層へ戻りたい。分かるかな」


 深く頷き、金魚ジンユは歩き始めた。春海チュンハイの目の前を抜けても、まるで風が動かない。


 彼女自身が丸ごと紗であるように、ふわふわと柔らかい所作。それが行き過ぎ、また振り向く。

 氷を嵌め込んだかの青い瞳と視線がぶつかり、金魚ジンユは笑う。


 同時に動いた手が、彼女の頭頂近くを指した。迷宮の入り口で見た時には、美しく髪を纏めていたところだ。

 この笑みだけは、悲しげと思わなかった。

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