第75話:見えるもの見えぬもの
「あなたには四つ角が見えたのね」
「ええ? 幾つもあっただろ」
「いいえ、私には見えなかった」
もう一度「ええ?」と、
「聞いたの、冥土と狭間の迷宮って。
怪訝に首をひねりつつ、
厚い地面を殴ったように、重い音が返った。ついでに少しばかりの水気も飛び散る。仄かに紅く染まった手は、
「これが幻とでも言うのかい?」
「何かは分からない。でもたぶん、人間に本当の姿は見えないんじゃないかしら」
倒れた
生き物の粘膜としか見えぬ壁は、変わらず一定の脈動を続けた。
「いや、
立ち止まり、話していても、広い通路が形を変えることはなかった。
見渡す彼に、どうしたら伝わるか。考えるうち、同じようなことがもう一つあったのを思い出す。
「そうだ、あの人形。千の手が通り過ぎて、景色の変わった向こうへ消えたの」
「ああ——」
十一階層でのことだ。最初は広々とした空間であったものが、千の手が進んだ後ろは入り組んだ迷路へと戻る。
その向こう側へ、
「あの時見たのが、迷宮の本当の姿ってことかい?」
「あ、いえ。たった今の思いつきだけど、どちらも本当なのかも。生きた人間と冥土の住人とは、見えるものが違う」
正答だったとして、事態の解決に寄与しないけれども。
「だとしたら、死の回廊が境かもしれない。壁から滲みだすみたいに、次々と屍鬼が現れるんだ」
「うん、見た」
地上が人間の世界。十一階層までが、
「えっ。一人で?」
「まさか。あんなところ、私だけで抜けられるわけない。
どうしようもなかったと言え、勝手に居なくなった格好だ。案じさせているかもしれない。
そう言うと、
「どうしたの?」
「……何か言われなかった?」
「何かって」
「俺と、きみがどうとか」
表情の薄い顔に、疲労が張り付いている。それがなぜか、平常へ近づいたように見えた。
男という生き物はよく分からないが、好敵手に奮起させられるという話は聞く。兄弟だが
「
「へえ……」
気のせいか、彼に握られた手に圧が増す。
「昨日の敵は今日の味方と言うものね。競い合う仲って素晴らしいわ」
「素晴らしい?」
「え。だって、そうでしょ。仲良しというのとは少し違うかもしれないけど」
握り合う手の辺りで、ぎりぎりと肉を締め付ける音がした。
彼の膂力からすればまだまだだが、もう気のせいではあり得なかった。
「ねえ
「あいつはいつもそうなんだ。俺には拘りのないどうでもいいことでも、すぐに真似して自分の勝ちだって言う」
「そ、そうなのね。あの、手を」
「でもきみは駄目だ。譲らない」
「ねえ
もう限界だ、彼の手を引き剥がしにかかる。手の大きさも筋力も比べものにならず、無益な抵抗だが。
けれど、触れた瞬間に解放された。
「あっ、ごめん。つい」
「ううん、大丈夫」
握り合ったまま、彼が手を持ち上げる。反対の手を添え、優しくさすってくれた。
誰しもうっかりはあるのだ、責める気持ちにはなれない。
「
互いを目標に高め合うのは良いことだ。そういう気持ちで微笑むと、
「きみの抜けっぷりのほうが凄いよ」
わざとらしい苦笑も加えられたが、意味が分からなかった。「どうして?」と問うても、彼は首を横に振る。
「それにしても、腹が減ったなあ」
音を立てて、
「ねえ、何?」
「きみももう、食料はないって言ったよね」
「どういうことか教えて」
噛み合わぬ会話を続けても、遂に真意は聞けなかった。行くも戻るも叶わぬ中、空腹の先に立つ問題はない。
「お父様に短刀の鞘を貰ったわ。少しは紛れた」
するとやはり、
「そうか、革なら食えるね。さすが父さんだ。何かあったかな」
背負い袋を開き、彼は頭を突っ込む勢いだ。
しかし万が一はある。ずっと過去に入れた物が、そのままになっていたとか。
背負い袋を膝に載せ、探す。中には
残るは表に付いた小袋の中。手拭いや着替えと、やはり記憶にあるものばかり。
ただ、一箇所。特に何も入れなかった小袋に中身がある。表からの手触りでは、薄く柔らかい。
(何か入れたかしら)
当然に、考えるより行うのが早い。手を突っ込み、中身を取り出した。
それは一枚の布地。向こうの透けて見える、薄青の紗。迷宮の入り口で
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