第75話:見えるもの見えぬもの

「あなたには四つ角が見えたのね」

「ええ? 幾つもあっただろ」

「いいえ、私には見えなかった」


 もう一度「ええ?」と、破浪ポーランの眉間に皺が寄る。


「聞いたの、冥土と狭間の迷宮って。鬼徳神ゲドと話した、あそこだけが特別かと思ったけど、違うみたい。きっとここも冥土の一部なんだと思う」


 怪訝に首をひねりつつ、破浪ポーランは壁に向かう。空いたほうの手で拳を作り、叩きつけた。


 厚い地面を殴ったように、重い音が返った。ついでに少しばかりの水気も飛び散る。仄かに紅く染まった手は、長褲ズボンへ擦りつけられた。


「これが幻とでも言うのかい?」

「何かは分からない。でもたぶん、人間に本当の姿は見えないんじゃないかしら」


 倒れた破浪ポーランを見つけた時の様子を話しても、「うーん」と。拭ったばかりの拳で、また殴る。

 生き物の粘膜としか見えぬ壁は、変わらず一定の脈動を続けた。


「いや、春海チュンハイを疑いはしないよ。きみが見たと言うなら、そうだったんだろう。問題は俺の想像力のほうかな」


 立ち止まり、話していても、広い通路が形を変えることはなかった。

 見渡す彼に、どうしたら伝わるか。考えるうち、同じようなことがもう一つあったのを思い出す。


「そうだ、あの人形。千の手が通り過ぎて、景色の変わった向こうへ消えたの」

「ああ——」


 十一階層でのことだ。最初は広々とした空間であったものが、千の手が進んだ後ろは入り組んだ迷路へと戻る。

 その向こう側へ、偉浪ウェイランの足を奪った人形もどきは姿を消した。


「あの時見たのが、迷宮の本当の姿ってことかい?」

「あ、いえ。たった今の思いつきだけど、どちらも本当なのかも。生きた人間と冥土の住人とは、見えるものが違う」


 春海チュンハイも推測を話すに過ぎない。こういう解釈ではどうか、と。

 正答だったとして、事態の解決に寄与しないけれども。


「だとしたら、死の回廊が境かもしれない。壁から滲みだすみたいに、次々と屍鬼が現れるんだ」

「うん、見た」


 地上が人間の世界。十一階層までが、鬼徳神ゲドの言う狭間の迷宮。十二階層からは冥土へ踏み込んでいる。

 破浪ポーランの言うのは、そういうことだろう。春海チュンハイにも異論はなく、頷く。


「えっ。一人で?」

「まさか。あんなところ、私だけで抜けられるわけない。白蔡パイツァイが一緒に行ってくれたわ」


 どうしようもなかったと言え、勝手に居なくなった格好だ。案じさせているかもしれない。

 そう言うと、破浪ポーランはすぐに返事をしなかった。


「どうしたの?」

「……何か言われなかった?」

「何かって」

「俺と、きみがどうとか」


 表情の薄い顔に、疲労が張り付いている。それがなぜか、平常へ近づいたように見えた。


 男という生き物はよく分からないが、好敵手に奮起させられるという話は聞く。兄弟だが飛龍フェイロン小龍シャオロンなどもそうに違いない。


破浪ポーランと? あ、言っていたわ。あなたが私を大事にしているから、白蔡パイツァイもって」

「へえ……」


 気のせいか、彼に握られた手に圧が増す。


「昨日の敵は今日の味方と言うものね。競い合う仲って素晴らしいわ」

「素晴らしい?」

「え。だって、そうでしょ。仲良しというのとは少し違うかもしれないけど」


 握り合う手の辺りで、ぎりぎりと肉を締め付ける音がした。

 彼の膂力からすればまだまだだが、もう気のせいではあり得なかった。


「ねえ破浪ポーラン。あの、痛いわ」

「あいつはいつもそうなんだ。俺には拘りのないどうでもいいことでも、すぐに真似して自分の勝ちだって言う」


「そ、そうなのね。あの、手を」

「でもきみは駄目だ。譲らない」

「ねえ破浪ポーラン? うん、分かった。譲るも何も、別に白蔡パイツァイは私を欲しがったりしていないから」


 もう限界だ、彼の手を引き剥がしにかかる。手の大きさも筋力も比べものにならず、無益な抵抗だが。

 けれど、触れた瞬間に解放された。


「あっ、ごめん。つい」

「ううん、大丈夫」


 握り合ったまま、彼が手を持ち上げる。反対の手を添え、優しくさすってくれた。

 誰しもうっかりはあるのだ、責める気持ちにはなれない。


白蔡パイツァイの対抗心は凄いなと思ったけど、破浪ポーランもね」


 互いを目標に高め合うのは良いことだ。そういう気持ちで微笑むと、破浪ポーランの濃い眉が悲しげに下がった。


「きみの抜けっぷりのほうが凄いよ」


 わざとらしい苦笑も加えられたが、意味が分からなかった。「どうして?」と問うても、彼は首を横に振る。


「それにしても、腹が減ったなあ」


 音を立てて、破浪ポーランは胡座に腰を下ろす。春海チュンハイも隣へ膝を突き、その肩を揺する。


「ねえ、何?」

「きみももう、食料はないって言ったよね」

「どういうことか教えて」


 噛み合わぬ会話を続けても、遂に真意は聞けなかった。行くも戻るも叶わぬ中、空腹の先に立つ問題はない。


「お父様に短刀の鞘を貰ったわ。少しは紛れた」


 白蔡パイツァイの扱いが不明なものの、福饅頭の件は言わずにおいた。

 するとやはり、偉浪ウェイランに対しては普通に話してくれる。


「そうか、革なら食えるね。さすが父さんだ。何かあったかな」


 背負い袋を開き、彼は頭を突っ込む勢いだ。

 春海チュンハイの袋には何もない。ファンが居るけれども、友人を食う発想は持ち合わせなかった。


 しかし万が一はある。ずっと過去に入れた物が、そのままになっていたとか。

 背負い袋を膝に載せ、探す。中には天界の門シャンタンと、小さな蛇だけ。


 残るは表に付いた小袋の中。手拭いや着替えと、やはり記憶にあるものばかり。

 ただ、一箇所。特に何も入れなかった小袋に中身がある。表からの手触りでは、薄く柔らかい。


(何か入れたかしら)

 当然に、考えるより行うのが早い。手を突っ込み、中身を取り出した。

 それは一枚の布地。向こうの透けて見える、薄青の紗。迷宮の入り口で金魚ジンユから貰ったものだ。

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