第74話:置き去りにしない
「どうした?」
すぐさま足を止め、
先ほど豊かな表情はない。だが眼に宿る僅かな曇り加減が、
「お母様って、どうして? どうしてそう思うの」
うっかり話してしまったろうか。思い返したが、記憶になかった。
ただし、あればうっかりと呼ぶまい。自分がうっかり者であるとは、怪訝に首を傾げた青年の保証付きだ。
「……ああ、父さんに聞いたのか。俺より先に聞くなんて、気に入られたね」
「違うわ。私が無理に言わせたの」
「きみはそんな人じゃない。それに、先に聞いたのを気にする必要もない。俺は自分で気づいたんだ」
視線で促され、柔らかく頷かれもして、再び手を握った。心なしか、握る力が強くなったように思う。
気にするなと言われて、それは良かったと割り切れる者がいるだろうか。不安な気持ちを繋ぎ留めるような手を、ぎゅっと握り返す。
「一緒に迷宮へ潜るようになる前。二、三年かな、俺は地上で待ってたんだ。父さんが十三階層へ下りてたのもその頃」
狭い部屋を出て、迷いなく
もちろん力強さは失われている。おかげで音を上げず、着いていけそうだった。
「その間も、誰かと組んでたって話は聞かない。俺なんかに物を売ってくれる人たちも、知らないってさ。つまり父さんは、自分一人の判断で下りてた」
背丈の倍も高い天井。同じく広い、左右の壁。
どこもかしこもが脈動するのは、気色のいいものでない。それをないものとすれば、平和そのものだ。
魔物の姿も、音もない。道はずっとまっすぐ、かと思うと突如として折れ曲がってはいるが、分かれ道はなかった。
「何のために?」
手を引く
答えてやりたかったが、さっぱりだ。さらには考え込む前に、彼自身が答えを言った。
「帰りたい人、帰したい人を地上へ戻す。死んで何もかも失っても、それくらいは。あの父さんが屍運びをするのは、そういう理由さ」
「お母様がここに居るってことね」
けれどもあえて、相槌に話す。
(私を置き去りにしないで。償いをさせて)
という思いは秘めたまま。
「そうだよ。でないとそんなことするもんか、あの父さんが。あの野蛮な口から出た誰かの話なんて、母さんしかないんだ」
「聞いたの?」
失礼であるし、肯定をしなかった。が、納得はする。
「聞いたよ。背中におぶさっていたころね」
母のことというだけで、具体的な内容は覚えていない。付け加えた
「そうね、お父様は
「だろうね」
それなら今は、いいことにしよう。己に甘い配慮を、とんでもない悪事に感じる。しかしそれも、見てみぬふりとした。
(でも、もう一つ。これはあなたに黙っていていいのか、言っていいのか。私には決められないの)
父に代わって母を取り戻そうというなら、目的を失わすことになりはしまいか。
一人で行ってしまった時の悲しい目を、またさせるのは忍びない。
どうしよう。早く決めなければ。悩む時間は過ぎるのも速く、ふと気づくと互いに黙ったまま、かなりの距離を進んだ。
「ねえ。随分と走ったのね」
「走った?」
「だってお母さ——あの人形みたいな魔物から、あなたは逃げたのよね。今はまた、戻ろうとしてる。違うの?」
分岐がないのだから当然かもしれないが、変わらず
まっすぐに見えていても、差し掛かると折れ曲がっている。ただでさえそういう、感覚を麻痺させるような場所というのに。
「ああそうか、ごめん。人形もどきの前に、寄るところがあるんだ」
「どこへ?」
「そりゃあ父さんさ。母さんを連れに行くのに、父さんをのけ者にできない。拗ねるに決まってるからね」
振り向かない彼が、どんな顔をしているか知りたかった。冗談めかした言葉も、緊張した声が均衡を欠く。
かといって、不躾に覗くことはしたくなかった。
「お父様は、そんな狭量じゃないわ。でもあなたがそう言えば、きっと喜んでくれる。あなたも素直に、一緒に行こうって言えばね」
「俺はいつも素直さ」
ふっと失笑の鼻息が聞こえた。それは良かったが、「でも」と。
「問題は十二階層へ戻る道が分からないことだよ」
「ええ? どんどん行くから、当てがあると思っていたわ」
「あったよ。たぶんあそこだろうっていう場所はね」
それならと問おうとして、おかしな言い方に気づいた。
当てがある、のでなく。あった、と。
「どういうこと」
「おかしいんだ。見覚えのある四つ角を見つけて、戻ってきたつもりなのに道が違う。迷宮そのものを誰かが作り変えたみたいに」
「四つ角?」
何を言っているやら考えかけ、「あっ」と思い出す。
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