第73話:これからのこと

「もう一度聞くよ。きみはどうして、こんなところまで?」

「ごめんなさい……」


 正面の壁を見つめ、低まった声。責められれば、謝るしかなかった。

 彼をどころか、自分自身をも地上へ戻す力のない春海チュンハイが助けに来たなどと言っても笑えない。


「違うんだ。本当に会いたいと思ったし、会えて嬉しい。でもそこまでする理由が思いつかなくて」


 世辞を言ってくれるなら、少しは笑うなり、相応しい表情があるはず。

 そもそも破浪ポーランに難しかろうが、しかし今は他にも理由がありそうだった。どうも何か、深く考えながらの言葉と見える。


「——ひと言では難しいわ。あなたが一人で行くと言った時、止める理由が間違いなくあったけど、何て言えばいいか分からなくて」


 そのまま来てしまった。言うと破浪ポーランの目が、ちらとこちらを向く。すぐに反対へ逃げていったけれど。


「ひと言じゃなくていい。たぶん、ここに居ても危険はないから。詳しく教えてほしい」


 過去、踏み入った中で今も残るのは偉浪ウェイランだけという、正真正銘の最下層。十三階層にあって、何を根拠に。

 首を傾げても、説明は加えられなかった。ならば年長者の問いに答えることが、春海チュンハイには優先される。


黒蔡ヘイツァイ一家が通りかかって、小龍シャオロンを十二階層へ置き去りにしたと話してたの。飛び出して聞いたら、自分たちは悪くないって」

小龍シャオロンを——」


 空虚の結界を壊したことに、何か言われるかもしれない。首を縮めて覚悟をしたが、反応は静かなものだ。彼に怒号の想像も、またないものだが。


「ええ、そう。話すうち、最深層へ来れるのが黒蔡ヘイツァイ一家だけって気づいて、どうしてもあなたのところへ行かなきゃと思えて。それで」

「それで?」


 それで、どうするつもりかは考えなかった。

 今思えば、去り行く破浪ポーランにかけようと、探した言葉とおそらく同じ。


 これをまたどうしてと問われれば、やはり答えられない。自分で理解しないのだから、どだい無理な話だ。


「どうしても、あなたを置いて帰る想像ができなかった。もしそうすればこの人たちと同じだって、黒蔡ヘイツァイ一家が、その……」

「うん?」


 年長ばかりを捉え、良くないと言う。人生に経験のない行為に口籠ったが、彼にだけならと覚悟を決めた。


「汚いと思ったの」


 小さく、小さく、絞った声を破浪ポーランに耳打ちした。

 恥ずかしさと罪悪感と。顔の熱くなるような、冷えるような心地を同時に味わう。ぶるっと震えた手で顔を隠し、深呼吸をした。


「だから俺を? 見捨てないのが人間として当たり前ってこと?」


 淡々とした声が、むしろ責めて聞こえる。

 なぜ伝わらないのか。己の言葉の拙さに腹が立ち「違う違う」と、かぶりを振った。


「そうじゃないの。地上へ戻って、きっと私はお父様のお世話をするわ」


 破浪ポーランの居ない未来。これは想像でない、「当たり前のことよ」と言った。


「だけどそこに、あなたも居てほしいの。私のせいでこんなことになって、わけの分からないことをと思うかもしれないけど。どうしても、破浪ポーランも居ないと嫌だと思うの」


 あちこち散らばっていた、言葉の欠片を寄せ集めた。これがまったくの正解でないが、わざわざ訂正するほどの誤りもない。


 胸につかえていたものがとれ、ふうっと息を吐いた。のに、問うた当人からの返事がない。

 顔を隠したままだからか。

 手をずらし、覗き見る。すると彼は、じっと春海チュンハイを見つめていた。


「ど、どうしたの」

「——ええと。その、きみが言うのは」


 今度は破浪ポーランが言葉を見失ったらしい。何か言おうとした声を呑み込み、考えてまた呑み込むのを繰り返す。


「まあその、俺を好いてくれてると思っていいのかな」

「あなたを嫌いと言ったことはないはずよ」


 今までのことは、使命を果たさんとしたためだ。許されなくとも、理由は他にない。

 頑なであったのもそうで、だとすれば嫌っているとも見えただろう。


「そうね、ごめんなさい。私はあなたが好きで、使命に縛られる必要もなくなった今は、大切にしたいと思うわ。今ここに居る理由は、たぶんそう」


 選んだ言葉は稚拙だが、春海チュンハイ自身に合点のいく分析だった。己の気持ちと照らした上で、だ。


 それをなぜか、破浪ポーランは目を丸くした。そのまま何度かまばたきを重ね、やがて「うーん」と唸る。


(何か、おかしなことを言った?)

 疲弊した彼を急かす気にもなれず、黙って待つ。するとしばらくして、名を呼ばれた。


春海チュンハイ

「はい」


 改まってどうしたか。見つめる目を見つめ返し、視線で「どうしたの」と問う。

 ゆっくり。美丈夫は、両の口角を持ち上げた。切れ上がった目は柔らかく弧を描き、口もとから「ふっ」と収まりきらぬ笑声が溢れる。


「ありがとう」

「えっ? あの、ええと。いえ、私?」


 これほど活き活きと笑う筋肉を、携えているとは思わなかった。皮肉や冗談でなく、彼の顔はそういう構造なのだと思いかけていた。


 驚く春海チュンハイに、彼は素の無表情を取り戻し、告げる。

 もう少し見ていたかった、という願いは叶わない。


「行こう」


 膝立ちから腰を屈め、ひと呼吸を置きつつ、破浪ポーランは立つ。そして出された手を、咄嗟に春海チュンハイも握り返した。


「ど、どこへ?」

「人形もどきのところさ」

「一人で? どうするの」


 一人と言ったのは春海チュンハイなど戦力に数えられないからだが、必ず着いていくつもりではあった。

 それにしても瀕死に陥って、なおまたとは。彼の意図がまるで読めない。


「おかしなことを言い始めたって、思ってくれていいけど。あの人形もどきは、俺を殺さない」

「いえ、だって。さっき——」

「うん、あれほどの傷を付けたのは人形もどきさ。でもそれだけだ」


 繋いだ手に引かれ、歩む。賑わう地上の通りを進むより遅く。


「たぶんあいつは、人間を食う。食料じゃなく、手足を部品として奪うためにね」

「ええ……」


 その最初が破浪ポーランの母親だ。辿り着いた残酷な真実に、彼の知らぬ事実を重ねる勇気はない。

 偉浪ウェイランも「あの馬鹿は知らねェ」と言った。


「それから、あれは母さんだと思う」


 まさか、触れ合った手のひらから考えを読んだのか。思いがけぬ声に、握った手を振り払う。

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