第73話:これからのこと
「もう一度聞くよ。きみはどうして、こんなところまで?」
「ごめんなさい……」
正面の壁を見つめ、低まった声。責められれば、謝るしかなかった。
彼をどころか、自分自身をも地上へ戻す力のない
「違うんだ。本当に会いたいと思ったし、会えて嬉しい。でもそこまでする理由が思いつかなくて」
世辞を言ってくれるなら、少しは笑うなり、相応しい表情があるはず。
そもそも
「——ひと言では難しいわ。あなたが一人で行くと言った時、止める理由が間違いなくあったけど、何て言えばいいか分からなくて」
そのまま来てしまった。言うと
「ひと言じゃなくていい。たぶん、ここに居ても危険はないから。詳しく教えてほしい」
過去、踏み入った中で今も残るのは
首を傾げても、説明は加えられなかった。ならば年長者の問いに答えることが、
「
「
空虚の結界を壊したことに、何か言われるかもしれない。首を縮めて覚悟をしたが、反応は静かなものだ。彼に怒号の想像も、またないものだが。
「ええ、そう。話すうち、最深層へ来れるのが
「それで?」
それで、どうするつもりかは考えなかった。
今思えば、去り行く
これをまたどうしてと問われれば、やはり答えられない。自分で理解しないのだから、どだい無理な話だ。
「どうしても、あなたを置いて帰る想像ができなかった。もしそうすればこの人たちと同じだって、
「うん?」
年長ばかりを捉え、良くないと言う。人生に経験のない行為に口籠ったが、彼にだけならと覚悟を決めた。
「汚いと思ったの」
小さく、小さく、絞った声を
恥ずかしさと罪悪感と。顔の熱くなるような、冷えるような心地を同時に味わう。ぶるっと震えた手で顔を隠し、深呼吸をした。
「だから俺を? 見捨てないのが人間として当たり前ってこと?」
淡々とした声が、むしろ責めて聞こえる。
なぜ伝わらないのか。己の言葉の拙さに腹が立ち「違う違う」と、
「そうじゃないの。地上へ戻って、きっと私はお父様のお世話をするわ」
「だけどそこに、あなたも居てほしいの。私のせいでこんなことになって、わけの分からないことをと思うかもしれないけど。どうしても、
あちこち散らばっていた、言葉の欠片を寄せ集めた。これがまったくの正解でないが、わざわざ訂正するほどの誤りもない。
胸につかえていたものがとれ、ふうっと息を吐いた。のに、問うた当人からの返事がない。
顔を隠したままだからか。
手をずらし、覗き見る。すると彼は、じっと
「ど、どうしたの」
「——ええと。その、きみが言うのは」
今度は
「まあその、俺を好いてくれてると思っていいのかな」
「あなたを嫌いと言ったことはないはずよ」
今までのことは、使命を果たさんとしたためだ。許されなくとも、理由は他にない。
頑なであったのもそうで、だとすれば嫌っているとも見えただろう。
「そうね、ごめんなさい。私はあなたが好きで、使命に縛られる必要もなくなった今は、大切にしたいと思うわ。今ここに居る理由は、たぶんそう」
選んだ言葉は稚拙だが、
それをなぜか、
(何か、おかしなことを言った?)
疲弊した彼を急かす気にもなれず、黙って待つ。するとしばらくして、名を呼ばれた。
「
「はい」
改まってどうしたか。見つめる目を見つめ返し、視線で「どうしたの」と問う。
ゆっくり。美丈夫は、両の口角を持ち上げた。切れ上がった目は柔らかく弧を描き、口もとから「ふっ」と収まりきらぬ笑声が溢れる。
「ありがとう」
「えっ? あの、ええと。いえ、私?」
これほど活き活きと笑う筋肉を、携えているとは思わなかった。皮肉や冗談でなく、彼の顔はそういう構造なのだと思いかけていた。
驚く
もう少し見ていたかった、という願いは叶わない。
「行こう」
膝立ちから腰を屈め、ひと呼吸を置きつつ、
「ど、どこへ?」
「人形もどきのところさ」
「一人で? どうするの」
一人と言ったのは
それにしても瀕死に陥って、なおまたとは。彼の意図がまるで読めない。
「おかしなことを言い始めたって、思ってくれていいけど。あの人形もどきは、俺を殺さない」
「いえ、だって。さっき——」
「うん、あれほどの傷を付けたのは人形もどきさ。でもそれだけだ」
繋いだ手に引かれ、歩む。賑わう地上の通りを進むより遅く。
「たぶんあいつは、人間を食う。食料じゃなく、手足を部品として奪うためにね」
「ええ……」
その最初が
「それから、あれは母さんだと思う」
まさか、触れ合った手のひらから考えを読んだのか。思いがけぬ声に、握った手を振り払う。
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