第72話:本当の役目

(私が生まれて、今日これまで。私の祈り、私のための祈り。私から誰かへ、誰かから誰かへ、私の周りにあった全ての祈り)


 成人した正月の日。与えられた大念珠の意味を、父に教えられた。

 春海チュンハイ自身の抱いた、口にした祈りと、目と耳に届いたあらゆる祈りから少しずつ、神通力を蓄えていくと。


 父の言葉が胸に浮かび、「ああ」と息を漏らした。

(彼に使うなら後悔はないの)

 後は、珠を繋ぐ紐を切るだけ。己の拳を斧の代わりに振り上げる。


破浪ポーランに癒しを!」


 叫ぶ。が、やはりまともな声にはならなかった。

 しかし祈りに大切なのは、純粋に願う気持ちのはず。迷いも不安もなく、大念珠の輪に拳を叩きつけた。


 ——はずだった。

 いよいよの瞬間、まぶたが勝手に閉じていた。

 視界を失って直後、振る腕に急制動がかかる。それは誓って、無意識にも、春海チュンハイが止めたのでない。


「何を、する気だ……」


 先よりもほんの少し、熱の戻った声。

 目を開くと、そこに破浪ポーランの顔がある。握られた手首が、きりきりと軋む。


「痛——」


 思わず呻く。すると大きな手が慌てて離れ、支えを失った彼は前のめりのまま、顔から地面へ突っ込む。


破浪ポーラン!」

春海チュンハイ


 案じる女の声。訝しみを残しつつも、ほっと脱力した男の声。どちらも渇き、枯れ草を擦り合わすようだった。


 二人ともが否応なく、蠢く地面に頬を触れさす。顔を起こし、正面に向き合うことも今は難しい。

 上目遣いでどうにか視線を結び、投げ出された彼の手に触れる。


 血に濡れた砂埃が、熱を含んでいた。生きる者には当たり前の、心地いい体温が。


「ふふっ」


 笑おうとはしない。けれども開いた唇から、そういう音で息が抜ける。


「はは」


 酷く眠そうな破浪ポーランの笑声も、きっと同じだ。


 ◇◆◇


「何をするつもりだった?」


 はっきりと破浪ポーランが問うには、一刻以上も休息が必要だった。

 彼の残していた水と、同じく春海チュンハイの水と。先行きをさておいて飲み干した。


「あなたの傷を治そうと」


 砂埃のあらかたを落とし、破浪ポーランの四肢が無事とたしかめた。

 彼も食料がなく、その上に多量の流血で動けなくなったらしい。


「そうかもしれないけど、違うだろ。きみはたぶん、取り返しのつかないことをしようとした」

「取り返しのつかないことは、もうとっくにしてたもの」


 話しながら、壁を背にして座る。並んで、肩が触れ合った。

 いつの間にか、四方が壁に囲まれていた。彼ら父子のボロ小屋と同じくらいの、狭い部屋の中だ。

 これくらいの不思議は、今は置くことにした。


「何を?」

「おかしなことを言い始めた、って思わないでほしいんだけど。私ね、神様と話したの。すぐそこよ、鬼徳神ゲドから使命のことを」


 指さしてみたものの、方向は見失っていた。

 破浪ポーランは見通す目を向け、もちろん壁で見えないにも拘わらず、同じ辺りを何度も見回した。


 終いに春海チュンハイの目を見据え、小さく頷いてくれる。

 生きていて良かったと、感情の波が襲った。


「ありがとう」

「えっ?」

「あ。ごめんなさい、わけが分からないわね。破浪ポーランが生きていて、また話せて良かったと思うの」


 熱い大きなうねりが、何度も押し寄せる。話さねばならぬことが山ほどあるのに、自身の気持ちが最前に立ってしまう。


 どんな気持ちか、もしも問われたなら困っただろう。

 杭港ハンガンへ来てからの、あらゆる出来ごとを踏んだ上でしか説明ができないと思った。


「きみと会いたかったのは俺こそだよ。でも良かったとは言えないかな、もう地上へ戻る途中と思ってた」


 視線を遠ざけての言葉は、本心と聞こえた。彼の覚悟に偽りのあるはずがなく、当然とも思えたが。


「ごめんなさい」


 高い破浪ポーランの肩に、顔を押しつける。なるべく近くで謝らねばならない、という思いを実行に移すとそうなった。


 血と、汗と、砂。肌を削るやすりのごとき感触が、自分に相応しい。その奥にある彼の温もりはないものとして。


「……鬼徳神ゲドは何て?」


 彼の喉もとで、発しかけた声の戻るのを感じた。三、四度ほどの試行を経て、最終的に聞こえたのは鬼徳神ゲドの名。


 いい、と許してほしかった。

 我がままと知っているから、仕方がないとすぐに諦めたが。


「それを話すには、あなたにどれだけ謝ってからか見当もつかないわ」

「ええ?」


 眼窩の落ち窪んだ顔。素より表情の薄い男が、無理に笑おうとする。

 余計に悲壮感が増した。


 鬼徳神ゲドから聞いたことを、聞いた順に話す。繰り返しに記憶を手繰りながら、細かな言い回し以外は間違いないと自信を持って。


「……なるほどね」


 これで全部と言うまで、破浪ポーランは相槌だけに徹した。

 怒りを溜め込み、最後に放出があるかも。普通ならきっとそうだと覚悟をしたが、彼の声は穏やかなままだ。


「なるほどって。怒らないの?」


 驚いたふり・・で問う。

 正直なところ、怒らない予感のほうが強かった。予感が当たり、罪悪感の処置に困る。

 いっそ刺し殺してくれれば、ちょうど釣り合いがとれるくらいに考えていた。


「怒ってなくは、なくもないかな」

「どっち?」

「いや。それより何より、きみが使命を果たそうっていう頑なさに納得がいったんだよ」


 話の通じたのは良かった。しかしこうもあっさりされては、立つ瀬がない。

 怒ってと、ねだるのは変だろうか。次の対応を決めかねる間に、彼の言葉は続く。


「でも反対に、分からないこともある」

「何?」

「その話だと、きみの役目は何だろうって思うんだよ」

「役目はあなたを……」


 なんだ通じていなかったのか。それならまだ、怒ってもらえるかもしれない。安堵に近い妙な感覚と、もう一度話す重荷に声が詰まる。


 思いの外という様子で、破浪ポーランの手が否定に振られた。


「いや。うん、それは分かる。でもそうじゃなくて。分からないのは、俺たちはきみが来なくても十二階層へ来てたってところだよ。毎度じゃないけどさ」

「あ——」


 言われるまで、気づかなかった。鬼徳神ゲドも言ったのだ、春海チュンハイのおかげで破浪ポーランを連れ込めたと。


「あの、それは、そう。たとえばどこか、ちょうどの時期に合わせる必要があったとか」

「だね。俺もそれは思った」


 今さら使命の正当化をするつもりもない。ただ、理屈の通らないのを嫌うのは性分だ。

 思わず、辻褄の合う落としどころを見つける方向に考えが働く。


「だけどきっと、それも違うんだ。あの青白い、人形みたいな奴。あれに会って分かった」


 おそらく疲労のせいで、いつもよりゆったりとした破浪ポーランの声。

 ちょうど合う速度で、彼の首がぐるりと回る。春海チュンハイと二人で居る、この狭い部屋を一通り眺めて。

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