第71話:生涯懸けた祈り
いつの間に。どこから。
どう考えても、いくら見回しても、そこへ湧いて出たとしか思えない。
大柄の、人の格好をした、全身が真っ黒の誰か。
最初に千の手を見た時のように魔物と疑ってもみたが、どうやら違う。
塗れた砂埃が、肌の色さえ分からなくしている。すらと背の高い、おそらく男を。
迷宮は静まり返っていた。緊張に乱れた、己の呼吸を耳障りに思うほど。
(まさか)
何者か、浮かべた予測に胸が鳴る。どくん、と大きく太鼓が打たれた。
一人で勝手に動くな。
その男の言葉が、駆け寄ろうとする足に鎖をかけた。
僅かな距離。慎重に、屈んだまま、ゆっくりと足を引き摺る。
「……
小さな声。地面を擦った雑音と思うほど、かすれた音色。
だが、聞き漏らさない。
「
瞬間、
十歩の距離を、まばたきの間よりも短くした。
うつ伏せの背に触れ、たじろぐ。塗れた砂埃が濡れていた。
裏返した手のひらは朱い。
しかし、口を利いた。生きていて、
「
喉を痛めそうなほど、耳もとで騒ぐ。うるさいと叱られたなら、それが一番だ。
「お願い、何か言って!」
「……た」
聞こえた。即座に口を閉ざし、彼の口に耳を近づける。
「何で来た……」
間違いない、生きている。四肢に欠けたところも見えない。
ならば見習い僧でも助けてやれる。この迷宮には、祝符があるのだ。
できれば
腰の小袋へ手を伸ばし、中を探る。しかし袋の内側の他、何にも触れない。
さっと血の気が引く。
「どう……」
どうしよう。口走りそうになって、きゅっと歯を食いしばる。
この場には他に誰も居ない。放っておけば、いや次の瞬間にも、
(あなたは私が助ける)
そっと、強く、誓う。
声には出さない。
(私が、私のためにするんだもの)
背負い袋を下ろし、
こんな時にのんびりとした姿を見て、固く強張った気持ちが緩んでしまった。小さな蛇に感謝し、そっと畳んだ袋を脇へ。
祝符に頼ることはない。今まで、そんな物はなしに修行をしてきた。
「海川の波のごとく、生きる者の呼吸をそのまま、命は巡る。
(これで
だから。と願い、両手を合わせる。かっと
つい先ほどまで、神と顔を突き合わせたのだ。根拠にもならないが、何だかできそうな気がした。
「神々よ、お願いします——
薄く、朱の光が膨らむ。それは門のこちらへ球となり、僅かずつ色を濃くしていった。
(まだ、まだ——)
段々と血の色に近づく。父の用いる
まだ足りない。
動かぬ
神への語りかけを繰り返し、声が嗄れ始める。手も息も震え、伝染したように
目の前を雨粒が落ちる。すぐに滝となったその雨は、
目にしみ、着物をずぶ濡れにし、座る地面に湖を拵える。
当然に、そんなものは一顧だにする価値もない。門の手前、神通力の球は、熟れた李のごとく。これを無駄にするわけにいかないのだ。
震えた李が汗の湖に触れた。すると一瞬で干上がる。
ただし
「
男の姿がぼやけ始める。何のために術を練っているか、それも意識から飛びかけた。
「目を覚まして!」
叫ぶ。
解放された癒しの神通力は、朱槍のごとく伸びて門をくぐった。
「お願い——」
ふらり。揺れた
「ねえ……」
だが、
きっと足らなかった。もう一度だ。
這いずり、
「
先とは比較にもならぬ、蛍の光にも負けそうな朱が飛んだ。
(どうして)
どうしても何も、理由は分かっている。祝符がなく、食うのもまともに食わず、そもそもの力量が足りていない。
「でもね、あなたは私が助けるの」
もう、手立てがなかった。たった一つを除いて。
首から提げた大念珠の真ん中、一回り大きな珠を握った。そこへ文字の彫られていることが、手のひらに伝わる。
感触だけで判別までできないが、何という字かもちろん知っていた。贈珠之春海生誕祝〈
(約束を守れなくてごめんなさい)
声にも出したつもりだったが、もはや音になっていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます