第70話:悔悟と決心

破浪ポーランを死なすか、ジンを滅ぼすか。選べと言うの? 私に)

 十二階層へ下りた時と同じ、強い臭気。呆然とする春海チュンハイに、不快と感じる余裕もなかった。


「どうしよう……」


 目に、地面と天井が映る。ただし壁はなく、ゆっくりと首を巡らせても方角を得られない。


 脈打つ地面に、一歩踏み出す。どこへ向けて、どころか歩くつもりさえないのに。両脚がまるで別の生き物のごとく、勝手に動いた。抵抗する気も起きず、なすがまま上半身を揺らした。


「ねえ、誰か。教えて……」


 父の嘘など、もはやどうでも良い。ただしおかげで、ありもしない使命に破浪ポーランを従わせようとした事実だけが残った。


 いや、大勢と一人とが天秤にかかってはいる。結局の問題は義海イーハイが、自身を含めた僧を優先しようとした部分。

 とすると春海チュンハイが案ずるのは、破浪ポーランが父の嘘をどう思うかだ。


「父上、何てことを……」


 彼はきっと、春海チュンハイのせいではないなどと許してくれる。

 その優しさに甘えていいものか。そう自問することさえ、己の姑息さを感じて嫌気が差した。

 いいわけがないのだ。


「父上、どうしてくれるのですか。私、私……あなたのせいで、もう破浪ポーランに合わす顔がありません!」


 泣いてはいけない。それは自身をぬるま湯に浸ける行為だ。

 食いしばった歯の間から、息を啜る。それでも数歩を堪えるのが限界だった。頬に零れた液体が、唇の端から舌へ塩気を伝える。


「私にどうしろって言うのよ!」


 何もかも、自分のせいだ。そんな理屈はないと分かっていても、思い込みたかった。

 父は僧正の仕事を受け継ぎ、それでも死ぬことだけは嫌だった。破浪ポーラン偉浪ウェイランが屍を運ぶのも、何も悪事ではない。


 後ろ指で責められることでないはず。

 それなのにジンが滅びる、と。破浪ポーランを見殺しにすれば回避できる、と。

 なぜそんな重い役目を、自分が負うこととなったのだろう。


(答えを知ったって、どうもならないけど)

 もう、何を知りたいかすら分からなくなった。知ったことかと投げ出したかった。


「魔物に殺されれば、それまでよね」


 呟くと、耳もとでファンが口を鳴らす。肯定か否定か分からないが、この賢い蛇はよく返事をしてくれる。


「あなた一人で、よく無事だったのね。どこを散歩してきたの?」


 カカッと素早く鳴って、楽しかったと言ったように思う。暢気なものだと呆れたが、おかげで涙も止まった。


 こんな調子なら春海チュンハイが居なくとも、迷宮ここで気ままに生きていけるかもしれない。


「途中で破浪ポーランに会わなかった?」


 今度は返事がなかった。広い迷宮だ、無理もなかろう。

 いくら強くともたった一人で歩くのは、自殺行為以外の何ものでもない。あの時言った「きみの願いを叶えに行くのさ」とは、言葉の通りなのだろう。


「……間違ってたって言わなきゃ」


 もういい、と言われても。謝らねばならない。そして問うのだ、鬼徳神ゲドから聞いたことを余さず伝え、破浪ポーラン自身がどうしたいか。


「きっと今の破浪ポーランは、そのまま死ぬことを選ぶわ。そう言って別れたのに、どうして来たんだって私を叱るわ」


 腕にファンを乗せ、話す。反対の腕で、涙と鼻水をごしごしと拭った。


「それでも私は、彼を手伝わないと。とても迷惑をかけたもの、それくらいはしないといけない。そう思うでしょ?」


 赤く煌めく蛇が、折れた毒牙を鳴らす。

 意思が通じていようといまいと、どうでも良く。苦心して「ありがとう」と笑みを拵えた。


 と。

 地面が大きく揺れる。立っていられず、しゃがみこんだ。

 どんな地震も、倒れかかるような物のないのが幸い。天井ごと落ちてくるのは、心配しても詮のないこと。


「……誰?」


 揺れが収まり、伏せた顔を起こした。十数歩の先に、誰か倒れている。

 ぼんやりと歩いてはいたが、目を瞑っていたわけでない。揺れの直前まで、たしかに誰も居なかったのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る