第69話:託された選択

 天上の三神。始徳神サイド生徳神シィド終徳神スゥドが、父の語りかけに答えることはない。

 そう、たしかに聞いた。


 もう一つ。迷宮から屍を運び出すのが困る、とも。つまり破浪だけの問題でなく、必ずしも彼を死なす必要はないのだ。


(父上が嘘を……!)


 聞き違いであってほしかった。しかし鬼徳神ゲドの声はどこをとっても聞き取りやすく、誤りや漏れなどあり得ない。


「お教えを、賜れますでしょうか」

「何なりと」


 茶飲み話のごとく気安い鬼徳神ゲドの声。対して春海チュンハイは裏返り、引き攣る。

 今にも叫び、自身を八つ裂きにしてやりたい。そういう思いを堪えて。


「では破浪ポーランを。屍運びをやめさせさえすれば、あの男を死なせる必要はないのですね」


 尊敬する父が嘘を言ったこと。騙されたのが、自分であること。

 白蔡パイツァイに殴られれば、こんな衝撃に襲われるのだろうか。


 ただ、ぐわんと響く耳鳴りに負けていられなかった。己より先に考えねばならぬことがある。

 最大に迷惑を被ったのは、他ならぬ破浪ポーランだ。


「いや、またそれは別」


 横殴りの衝撃が、先と反対から。拳を振るったのは白蔡パイツァイでなく、双龍兄弟だったらしい。


 鬼徳神ゲドの返答は予想外だ。

 予定では破浪ポーランに謝罪し、許されようが許されまいが春海チュンハイも父を軽蔑して終わりのはずだった。


「別、と仰いますと」

「運び出すたび、屍の徳を幾らか引き受けておる。数が数だけに、今さら持ち逃げされては困る」

「それは——自然に死ぬるまで待っていただくわけには」

「いかんな。時が過ぎれば徳も目減りする」


(どうしてそんなことに)

 脈動する地面へ両手を突いた。でなければ突っ伏すところだった。

 どうにか、あの無表情を救う術はないものか。考えても余地のないことを悟るばかりで、ますます頭が下がる。


「どうか、お教えいただけませんか。破浪ポーランの死なずに済む方法を」


 自然、ひれ伏す格好となっていた。何やらついでに願ったようで、鬼徳神ゲドにも破浪ポーランにも申しわけない。

 けれども他にどうすれば良いか、春海チュンハイには思いつかなかった。


「死なすなと言うなら、それでも構わん」

「それは」


 あっさりと覆った。

 顔を上げかけ、すぐに伏せる。瞬間に見た鬼徳神ゲドは、変わらぬ冷たい笑みのまま。

 機嫌を損ね、皮肉を言っている。とも見えなかった。わけが分からず、次の言葉が出ない。


「我はどちらでも良いと言っている。しかしあの男を生かせば、じきに人間が滅びる。それでも良いのならと忠告をせねばならん」

「それは。それは私の父の偽りでは!」


 たまらず二、三歩分もにじり寄った。鬼徳神ゲドの気色はまるで変わらず、どちらでも良いという言葉を重く感じた。


「お前の父が、我の言葉を曲げたのは一つ。天上や冥土に近い者ほど、災いを受ける順番も近い。それを伏せただけよ」

「では最初に、皇帝陛下や僧から」

「いかにも」


 震えが止まらない。どころか、より酷くなっていく。

 なぜ破浪ポーランだけが、そんな重みを背負わねばならない。


 いや、待て。彼が死なねば人間の全てに災いが起こるとは、それこそ神が直々に手を加えることになる。


(まさか鬼徳神ゲドさえ嘘を吐くというの?)

 畏れ多い。が、他に辻褄の合う答えが見つからない。だがこんなことを口にして良いはずもなく、口を開くのさえままならない。


「ああ、きっとお前は思い違いをしている。あの男を死なせねば罰を与える、とは言っておらん。あの男の抱える徳の扱いによって、天上と冥土の均衡が崩れるのだ」


 それは上下に挟まれた人界に甚大な被害をもたらし、いずれ滅亡にも及ぶ。「細かな順番までは神にも分からんが」などと、僅かながら鬼徳神ゲドは笑声を洩らした。


「ではもう、避けようがないではないですか。それなのになぜ、どちらでも良いなどと」


 春海チュンハイごときに、手の尽くしようもない。火山を鎮め、嵐を追い返す。そういう力は人間の領分でなかった。

 ゆえに、だろう。悲しさに類する感情が起きてこない。代わりに、のぼせたような気怠さが膨れ上がる。


「我らは人間を見守っている。しかし是が非でも繁栄させてやろうと、そういうことではない。手助けはするが、無理なものは無理だ。人間が滅びれば、また新たな何かを始徳神サイドが生む」


「汲み水が腐れば庭に撒き、泉で汲み直せば良い。と?」

「いかにも」


 疑う余地も理由もなく、もはや他に問うことも思いつかない。

 ふらふらと立ったのは、無意識だった。「どこへ行く?」と問われ、初めて気づく。


「えっ、いえ……」


 問われたのが、何をするでなくて良かった。そうであれば、滅びの時まで何も思いつかなかったに違いない。


 しかしこれから行きたい場所であれば、一つだけが思い浮かぶ。すぐさま、はっきりと。


「いや分かった。行くがいい、止める理由もない。お前をここに呼んだのは、頼みを聞いた礼を言いたかっただけだ」

「それは勿体のうございます」


 胡座のまま、鬼徳神ゲドは手を上げた。それが謝礼の印だったのかもしれないし、別れに手を振ったのかもしれない。


 ともかく最拝礼で答えた春海チュンハイが、再び顔を上げた時。神の姿はそこになかった。

 果てのない漆黒の天も、岩の碗も。


「受け入れるも足掻くも、好きにするがいい」


 夢や幻でない証拠に、最後の言葉もまたはっきりと聞こえた。

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