第68話:神宣とは
合わせた顔と顔は、およそ十歩の距離。眺めること数拍、素直に座したことを悔やんだ。
座ったままでの拝礼は作法にない。ひれ伏す手もあるが、既に面と向かってからは失敬と思える。
視線を外し、息吐く手段を失った。
「ところで、これが何か分かるか」
ありがたいことに、さっそく
これ、とは岩の碗。果ての見えぬ空間に、ぽつと置かれた中身のない巨大な容れ物。
何、と言われて分かるわけがない。
ただし考える間は、神の尊顔を直に見ずとも済む。ずっと見ていては目が潰れるのでないか、気が気でなかった。
「考えてみましたが、さっぱり。強いて言えば湯殿かと思いました。でも湯を引けないでしょうし、やはり分かりません」
答えながらも思考を続けるふりで、碗を見つめた。言葉が尽きると覚悟を決め、大きく息をしてから視線を戻す。
細面の笑みは、決して柔らかいと言えない。何かに似ていると思い、すぐに冬の月が胸へ浮かぶ。
冷たく闇を裂く、冴えた月光のようだと。
「なるほど湯殿か。しかしあながち、間違ってもいない。これには湯を満たし、人間を入れるものであるからな」
「左様の代物でございますか」
神宣についてだったはずが、湯殿から話し始める。どう結びつくか、とんと見当もつかない。
それでも
頷き、次の言葉を待つ。
「この真上に、
今度は天に指が向いた。もちろん従って見上げる。
「
生命の泉は知っていた。
それに
少し、せせら笑うような言い方が気になった。天上と冥土で、四柱の神々はいがみあっているのか。
思わず浮かんだ憶測を、気づかぬこととする。
「湯はそこから引く。水を落とし、我が沸かすのだ。この火打ち石でな」
「ああ……
両手の火打ち石が、静かに合わせられる。当然に火花は飛ばず、
洒掃の釜とは名の通り、冥土へ来た者を茹でて清めるための物。人界でこびりついた垢を落とし、冥土で受ける苦行の準備をする。
生命の泉からと知らなかったが、あとは
「見ての通り、今は空だ」
その声と共に、天の近づいた気がした。
地上で見る蒼天とは違う。どこまでも黒く、雲や星はおろか、何を見ることもない。
「生きたうちの行いによって、行く先が分かれる。二度と人界へ戻ることはない。天上で遊び暮らすか、冥土で眠るか。どちらも安息の名に違わぬものだ」
頷いた。
冥土で眠るのは罪を漱いでから。のはずだが、それを除いては教わったまま。
しかし、なぜだろうと首をひねりたかった。
それなのに、息苦しかった。端的に言えば、嫌な予感というものと自覚してもいた。胸がもやもやと、油を飲まされたように気持ちが悪い。
「例外がある」
ひと言で言葉を切り、
何か分かるか、と問うているのだろう。けれども答えが思い浮かばない。
「申しわけありません、分かりません」
「仙だ。人間が徳を重ね、仙人となれば必ず天上へ行く」
「なるほど、それは聞いたことがあります。現実にそうした人を、私は知りませんでした」
鷹揚な
だが勝手に、手足の指が震い始めた。
「公平でない。そう思わぬか」
「……公平、ですか」
話だけなら、仙人になるとは聞かぬこともない。
ほとんどは、そうなりたいという願望。残りは、そうなったという無責任な噂、あるいは詐欺。
何らかの証拠を以て、本物とされた例を知らなかった。
だが
であれば、成果もあって然り。不公平と言う意味に理解が及ばない。
「天上への確約はある。冥土へはない。我の治めるここが、忘却の彼方となっては笑い話にもならん」
「それは——仰ることに間違いはないと思います」
人数の配分。数の話となれば、たしかに間違ってはいない。もっともだ、と言いきることもできなかったが。
安息を得るという結果は同じでも、いや同じだからこそ。あえて苦行を選びたいと考える人間は少ない。
「ゆえに、狭間の迷宮を拵えた。踏み込んだ者が死ねば、必ず冥土へ来ることとなる。その代わりに、生きて戻った者には褒美があるのだ。悪くはあるまい」
頷いていいものか。判断がつかず、曖昧に首を動かす。その交換条件を良しとするかは、人間の一人ひとりが違う。
もしも
そう思うと、迂闊に声も出せない。
「わざわざ冥土の入り口と示してもやった。我ながら、親切が過ぎる」
はっはっ、と。渇ききって感情の伝わらぬ笑声。
冗談ではあるらしい。にやと口角を上げ、
「ふ、ふふっ。さ、左様でございますね」
(五つの子でも、もう少しましよ)
己の酷い演技が、命を縮めたように感じた。
けれども採点はされなかった。
「困ったことに、またこれを邪魔する者が出た。ここまで辿り着けば、お前にも通じたろうが」
「は——それはもう。迷宮から屍を運び出されては困る、のですね」
「我が直々に手を加えること叶わぬ。ゆえにお前の——父だったか。人間には長い時間だろうに、熱心に語りかけておったな」
「ありがとうございます。そのお言葉だけでも父に伝えれば喜びます」
動悸が激しい。人間の全てに関わる、重大な事実を聞かされてはもちろん。
しかしそれだけでない。
今、
この疑問が神を疑うものと気づき、そうではないとすぐに否定した。
(でもそれなら、父上に託された使命とまるで違うのはどうして?)
寒さも暑さもないのに、震えが止まらない。勝手に揺れ動く手で、凍えたように震う唇を撫でた。
しっかり喋るよう、叱るつもりで。
「あの、一つお聞きしても——」
「しかしお前の父親も苦労なものだ。天上の三神とて、答えなどするまいにな」
一つ、涙が零れ落ちた。嗚咽を堪え、そのために唇を噛む。
流れた血を強く拭き取り、顔を伏せた。
今だけだ。礼を示すのに、おかしな機会でない。
「勿体ないお言葉、重ねてお礼申し上げます」
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