第九幕:礼と尊

第67話:鬼徳神

 鬼徳神ゲド

 そういう音色の鐘を、誰か目の前で鳴らしたろうか。耳の奥で、くわんくわんと目まいをさすほどに響く。頭を抱え、どうにか転げずに済んだ。


 神と話す機会があるとしたら、何を。

 父、義海イーハイが神宣を受ける立場ゆえに、そういう妄想をしたことはある。


 その時は、ふた月ほども考えあぐねた。結局、いつも見守られていることに感謝を示すと落ち着いた。


 しかし現実となり、口を利けなかった。何を話すという以前に、思考が回らない。

 姿は見えずとも、見える景色が冥土であり、その全てが鬼徳神ゲドそのものと。


 疑う余地はなかった。透明の巨大な手に握られたような、だが不快でない圧迫感に包まれている。

 神の威光とはこういうものか。考えるまでもなく理解した、心の根が震えた。


「どうした、呆けたか。何を震えている」


 何かの弾ける音がした。両手を打ち合わせたような、軽やかかつ鋭い響きが春海チュンハイの全身を揺り動かす。


「あ……あの、その」

「畏れずとも良い。お前は我が言葉を携え、この地を訪れた。そうだな?」

「そ、そうです!」


 声と共に、身体じゅうの息もひと塊に飛び出た。げほげほと噎せた喉が落ち着けば、不思議と気持ちも和らぐ。

 胸を撫で下ろし、また黒い天を仰いだ。


「神様のお言葉を、父から聞きました。でも……」


 破浪ポーランを死なせねば、ジンの至るところに地震、大水、疫病、ありとあらゆる災厄が撒かれる。


 神宣を受けた日。尊敬する父の、取り乱した姿が忘れられない。

 だからこそ必ずやり遂げると固く誓い、女の身で皇都からの旅路を恐れなかった。


「案ずるな、我は礼をしようと言うのだ。約束を違えなんだことに」

「約束を——私は、果たしたのですか」


 意味するところに、身震いがした。つまり、と言語化しようとする思考を、かぶりを振って追い出す。

 違う、と言って欲しい。役立たずが何をやっているか、と叱って欲しい。

 求める答えと、鬼徳神ゲドの姿を探す。


「ふむ、どうも目に見えねば落ち着かぬか。仮にとはなるが、我の姿を映してやろう」


 聞こうと意識せずとも、神の声が霞むことはなかった。耳慣れぬ抑揚で、むしろそれが良いのかもしれない。

 祝符に使う、神へ呼びかけるための言葉でなく、人間が普段使う言葉のままが聞こえる。


(私などを気遣ってくださるの)

 戸惑うのを察し、こちらの具合いの良いようにしてくれる。という事実と、人間と同じような感情を神も持つと知ったこと。


 その二つが畏れ多くあり、驚きもし、次の言葉をただ待つ。言われた通り、呆けたように。


「これでどうか」


 天を覆う闇が漏れ落ちる。大きな水滴のごとく地面を打ち、弾けることなく人の姿を成す。

 白蔡パイツァイにも匹敵する身の丈と、すらと長い破浪ポーランの手足を併せたような美丈夫。


 青白い肌が、あの人形もどきや千の手を思い出させた。しかし他は、目鼻も指の数も人間と同じ。

 僧院の像が両手に持つ、人の頭ほどの火打ち石も見える。


「あ、ありがとうございます。これで目を向ける方向に困りません」

「それは良かった」


 通った鼻筋の下、薄い唇が仄かに笑む。

 同じ美丈夫と言って、破浪ポーランとは違った。何がとは分からないが、諸肌脱いでいても、春海チュンハイが赤面せずにいられるところなど。


 そもそも上衣は纏っていないらしい。下衣は何重にもした巻き布スカート

 今にも血の滴りそうな鮮烈な赤が直視しがたい。顔を伏せ、今さらに拝礼をしていないことに気づいた。


「それでその、私。ご神宣を」


 慌てては却って失敬だろう。脂汗をかきつつ、ゆっくりと最拝礼に姿勢を変える。

 鬼徳神ゲドはそれには何も言わない。


「神宣? ああ、我の伝えた言葉か。地上で自ずと命を落とさすか、この地へ誘うか。お前は後者を選び、果たした。何、迷った末とは知っている。人間とはそういうものだ、案ずることはない」

「は——」


(知っておられるの。破浪ポーランを死なせたくないって)

 顔面が灼熱に火照り、首から下は極寒に冷える。

 顔を伏せていて良かった。きっと今の顔色は、見られたものでない。己の羞恥でなく、神への非礼を恐れた。


破浪ポーランはもう……」


 不埒でなければ、あとは彼のことだ。どう思うか知られているなら、持って回った問いは必要ない。

 それでも言葉の尻が消え入ってしまう。「申しわけありません」と、謝罪は自身の耳にも届かなかった。


「いや、まだだ」

「……まだ」


 ひく、と首すじが攣りそうになる。思わず顔を上げそうになって、強引に戻した。


「まだあれは、狭間の迷宮におる。お前たちの言う、十三階層か。そこへな」

「狭間の——彼は十三階層まで、一人で?」


 疑問は呑み込み、肝心のところを問う。「うむ」と、何やら鬼徳神ゲドの満足げな声。


「我が道を開いてやった。我の拵えた人形とまみえたいようであったしな。冥土の糧になってもらうのだ、それくらいを叶えてやるのは構わん」


 鬼徳神ゲドの作った人形。冥土の糧。

 何を指しての言葉かは、およそ分かる。しかし話す意味として、さっぱり分からない。


「畏れながら。冥土の糧とは何のことか、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「うん? 何だ、お前は聞いておらんのか」


 神と言え、何でも知っているのでもない。

 とすれば、幻滅させただろうか。軽はずみな問いを悔やみ、上目遣いに様子を窺う。

 すると、どかり座り込むのが見えた。胡座の鬼徳神ゲドは「お前も座れ」と、春海チュンハイの足元を指さす。


「し、失礼して」


 従うと、膝にファンが下りてきた。自分の席と主張するごとく、折れた毒牙をカッカッと鳴らす。


「では聞かせよう。お前の知らぬ、お前に託した言葉を」

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