余聞

第66話:少年の邂逅

 黒蔡ヘイツァイ一家が杭港ハンガンへやって来たのは、迷宮の出現からおよそ十年が経ってからだ。


 町へ入るなり、落ち着く先も決めず、まず向かったのが迷宮の入り口だった。

 烏鴉ウヤ白蔡パイツァイと三人。それぞれの背には、赤子も入らぬくらいの袋が一つ。


 あとはあちこち擦り切れた着物というくらいが、傍目に見える持ち物の全て。


「旦那、あたしは随分と田舎者でございましてね。幾つかお尋ねしたいんでございますが」


 訝しく「何だ」と。長机へ肘を突く護兵に、黒蔡ヘイツァイは両手を揉み合わせて問う。


「迷宮の奥底へ行けば、近衛にお取り立ていただけるとか。いえ結構な昔のお触れだそうで、取り消しになっておれば申しわけない。田舎者でして」


 珍しい質問でもないのだろう。どこかにある解答例でも読むように、護兵は平たい口調で答えた。


「そうではない。悪しきもの巣食うこの迷宮は、なぜここに生まれたか明らかでない。その真実を持ち帰った者に近衛の待遇を与えると、皇帝陛下の名入りで約束されている」


「それはそれは、ありがたいことで。であれば、今ひとつ。迷宮へ入るには条件などありましょうや? たとえばそう、幼い子でも良いかなどと」


 黒蔡ヘイツァイより幾分か若く見える護兵は、目つきも鋭く一行を眺める。


「——人相書きでも回っていれば別だが。その他に条件は設けていない。十歳で一端の子も居るくらいだ」


 怪我や命の保障も自分持ちと付け加え、護兵は睨みつけた。人相書きと口にする時が特に。


「母ちゃん。十歳って、オレと同じか?」

「あら白蔡パイツァイ。十歳が分かるんだねえ、偉いよ。でも残念、あんたは十一歳だ」


 烏鴉ウヤの猫撫で声に、護兵は太く鼻息を噴く。肘を突いた手に顎を乗せて。


「見えすいたことを。こんなでかい十歳が居てたまるか」


 白蔡パイツァイの背丈は、この頃既に両親よりも高かった。どころか、見る限りの護兵の誰よりも。

 加えて鍛え上げられた腕に、何をせずとも血管が浮き出る。隆々とした筋肉は、繊維の一本ずつまでも数えられそうだ。


「いえ旦那、本当に十一なんでございます」

「嘘を吐くな。お前たち、どこから来た」


 黒蔡ヘイツァイは、やって来た方向にある町を正直に答えた。ただしそこの役所に問い合わせても、住人に問うても、一家が住んでいたと証言は取れない。

 実際に住んでいたのは、町の近くにある洞窟だ。


「調べればすぐに分かる。悪党なら、今晩にでも逃げ出すことだ」

「いや旦那、勘弁してください。あたしら、そんなんじゃないんで」


 一家それぞれの名も問われ、護兵はすっかり決めつけているようだった。「参ったねえ」と顔を見合わす両親を見下ろし、白蔡パイツァイは長机に拳を叩きつける。


「何だ? オレの父ちゃんと母ちゃんに文句があるのか」


 机の天板が真っ二つに折れる。身を預けていた護兵は、そのまま前へひっくり返った。


「あ、ああっ。護兵の旦那、大丈夫ですかい」

「申しわけないねえ。うちの子、力の加減をまだ知らないんだよ。何せ十一の子供なもんでね」


 急いた声、無駄に腕をばたつかせ、黒蔡ヘイツァイ夫婦は護兵を助け起こす。

 二人して、汚れもしなかった護兵の身体から土埃を落とす。もちろんそれくらいで、赤く憤った顔色は治せない。


「よく見れば幼い顔つきしてるじゃないか」


 と、護兵の座っていた後ろから声が飛んだ。天幕で影を作った中に、休憩中の護兵たちだ。

 新参が居なくなれば自分たちも困るのだから、そう決めつけていじめるな。と窘められ、若い護兵は最後に舌打ちで黙った。


 その夜。

 白蔡パイツァイは寝る前の遊戯を楽しんでいた。安宿の軒に親指と人さし指でつかまり、自身の身体を浮かすのだ。


 洞窟育ちがゆえ、子供同士の遊びを知らなかった。

 身体を鍛え、巨大な猪を捕まえた時、母の喜んでくれたのが嬉しかった。弓や罠などは理解できなかったので、拾った石と己の身一つで。


 父も母も強い自分が好きらしい。そう知ってから、筋肉を盛り上げるのが何よりの愉しみとなった。


「あれ、どこか行くのか」

「ああ白蔡パイツァイ、今日もいい子だね。明日の準備をし忘れたことがあってね、すぐ戻るよ」


 地面に足を着けぬよう、上下すること百回を超えていた。白蔡パイツァイ自身に、その勘定はできていなかったけれど。


 宿の出入り口から近くはあるが、わざわざになる位置だ。夫妻は、我が子に内緒で出かけることをしなかった。


「もし遅くなっても、心配しないで先にお眠りね。ちょっと、ってくるものがあるだけだからさ」


 浮いたままの我が子に手を伸ばし、烏鴉ウヤは汗を拭ってやる。

 痩けた頬が表情をきつく見せがちだが、白蔡パイツァイにはほっと安らぐ母の笑顔だ。


「分かった。オレが寝床を守っとく」

「ありがとうよ。あんたが居てくれりゃ、何があっても安心だ。きっと今日が最後だからね」


 寂しくはある。だが両親が夜に出かけるのは、いつものことだ。朝遅く、白蔡パイツァイが目覚める頃には戻っているけれど。


 杭港ハンガンなら、その生活も終わりと聞かされてやって来た。

 迷宮へ入れば戦う相手が居て、身体を鍛えられる。その上に両親と離れることがないとは、いいことづくめだ。


 翌朝。初めて泊まる宿という施設の、狭いが囲われていて落ち着ける部屋の中。

 目覚めるといつも通りに両親の姿があった。街で福饅頭という物を買ってもらい、一度で食いきれない幸せも知った。


 迷宮の入り口で、護兵の机に近づくなと言われたり。昨日の護兵が居なくなったと聞いたり。そんなことは、どうでも良かった。


 ◆◇◆


 杭港ハンガンへやって来て、ひと月も経たぬ頃。迷宮に潜る十歳の子を、ようやく見つけた。


 人の探し方など知らず。唯一知っていた破浪ポーランという名を、買い食いに行った福饅頭の店で問うだけだったが。


破浪ポーラン、来てないか」

「ああ、ちょうどそこに居るじゃないか」


 そんな問い方で五日目に出会えたのは、運が良いほうだろう。頼んだ福饅頭をしっかりと受け取り、指さされた少年を追う。


「ふう、ふう。おい待て」


 人ごみをするすると抜けていく少年に、着いていくだけで息が切れた。

 商店の並ぶ通りからはずれ、やっとのことで肩をつかんだ。


「誰だあんた」

白蔡パイツァイだ。お前、強いんだろ。オレと戦え」

「ええ?」


 破浪ポーランという名の少年も、買い物に来たようだ。二枚の布を貼り合わせただけの袋から、干物や肉がはみ出している。


「戦えって——」

「お前、料理できるのか」

「え、料理? まあ煮たり焼いたりするだけなら」

「そうか、凄いな。でもオレのほうが強いぞ」


 難しいことは言っていないはず。と信じる白蔡パイツァイに、首を傾げた破浪ポーランは馬鹿に見える。


 こいつ、オレより頭が悪いぞ。

 火を熾すのも禁止された白蔡パイツァイに、料理は難しい。だからこの時点では引き分けと、互角の勝負は始まっている。


「ああ白蔡パイツァイって、新しく来た探索者か。俺と一つしか違わないって、本当か?」


 破浪ポーランも十歳の割りには背が高かった。それでも白蔡パイツァイと比べれば、大人と子供の差がある。


 見た目に体格を比べても、勝敗は歴然だ。破浪ポーランの脚と白蔡パイツァイの手首が、そう変わらない。

 唯一。斑に黒い着物が似合っていて格好良く、少し悔しいと思った。


「十一だ。オレと戦え」

「何でだよ。というか、そんなことしたら捕まるだろ」

「捕まる? 何でだ」


 杭港ハンガンに限らず、悪いことをすれば護兵に捕まる。とは知っている。

 悪いこと。が具体的にどういうものか、街中で人を殺してはいけないとしか教わっていなかったが。


「うーん……」

「どうした。武器がないのか? 持ってくるなら待ってもいいぞ」


 殺しはしない。この少年の実力次第だが、傷つけたいわけでもなかった。

 自分より先に迷宮へ入り、「なかなかやるらしい」と噂の同世代を知っておきたかった。


「分かった。迷宮の入り口に行こう」

「何でだ?」

「行かないなら勝負もしない」

「分かった、いいぞ」


 破浪ポーランは買い物を持ったまま、行く先を迷宮の方向に変えた。

 従ってくれるなら、白蔡パイツァイにも文句はない。黙って、いや口笛を吹きつつ着いていく。


「お前こそ武器がないけど、いいのか?」


 腰から手斧を取り、破浪ポーランが問う。どこへ行くかと思えば迷宮入り口の、護兵が詰める天幕の裏だ。


 広い範囲が酒樽で囲われ、端に木製の人形が据えてあった。おそらく訓練場所だろう。


「あるぞ。お前と同じだ」


 目に見えるところへ武器を提げるとは、こいつも大したことがない。

 そう思い、見くびった気持ちはあったろう。父も母も「簡単に手の内を見せるんじゃない」と常々言っていたから。


 白蔡パイツァイは帯を緩め、着物の首を前に引いた。するとそのひと手間で、上に重ねていた着物が脱げる。


 下に隠していたのは袖のない、網目状の着物。魚捕りにも使えるほど丈夫な物で、背に斧を吊り下げても問題なかった。


「でかい斧だ」

「そうだ。お前の小さい斧なんて壊れるぞ」


 白蔡パイツァイの背中にちょうど隠れるだけの刃を備えた、常人には持ち上げるのでやっとの大斧。

 渾身の力を籠め、叩きつけて、今までに壊せなかった物はない。


「さあ来い」

「ちょっと待て。何で戦うのか、まだ理由を聞いてない」

「理由? そんなの、オレが戦いたいからだ。お前がオレより弱かったらいい。強かったら、オレが勝つまでやる」


 うへえ、とため息があった。破浪ポーランのだ。

 気が済んだならすぐにでも刃を交わしたいのに、少年はまた「うぅん」と悩む。


「何だ、早くしろ。こっちから行くぞ」

「待てって。お前はやりたいようにやって満足だろうけど、俺には得がないじゃないか」


 今度は白蔡パイツァイが「うう?」と首を転がす。難しくて、何を言っているか分からない。


「分からないか。お前は俺と戦いたい。俺は戦いたくない」

「逃げるのか」

「逃げられたくなかったら、俺にも戦う理由を寄越せ」


 腹が立ってきた。わけの分からないことを言って、逃げるつもりらしい。

 ならば構うものか。雄叫びを上げ、突進する。


「勝手な奴だ!」


 ぶつぶつ言っている間に、少年の頭を割った。はずだが、手応えがない。

 振り下ろした斧を半回転させ、元通りに両手で構え直す。


「へえ、地面を割ると思ったのに」

「すばしっこい奴も、たくさん殺したからな」


 なぜか、あの優しい両親を殺そうとする、わけの分からない人間と多く出遭った。

 洞窟暮らしでは、自分で獣を狩るのも当たり前だった。

 命を刈るのは、自分と両親の命を守るため。抵抗はない。


 そんな経験を以てして、黒い着物の裾も追えなかった。どこかと探せば、すぐ背中で声がした。

 振り向きざま、斜めに斧を振る。その場に居れば肩を、躱せば足を傷つけられる軌跡で。


 だが、思った通りにならなかった。傷を負わせられなかっただけならば、まだいい。なぜか大斧が、思ったよりずっと上を空振りした。


 振り抜いてから、少年の姿を見つけた。どうやったものか、下へ潜り込んで白蔡パイツァイの腕を蹴り上げたらしい。


「それで俺の戦う理由だけど」

「じっとしてろ!」


 おかしい。

 脚の早い相手なら、人でも獣でも数え切れぬほど仕留めた。鼠のように、小さくて的を絞りづらい相手もだ。


 この斑に黒い生き物はどうも違う。

 思い直し、足を止め、じっと動きを見つめた。すると生意気に、相手も動かず無駄口を利く。


「俺の得って言ってもな。物とか銭とかは要らないし」

「かかって来い!」

「弱ったな、何かないか?」

「何か欲しいなら、勝ってから言え。何でも言うことを聞いてやる!」


 こちらから突っ込んでは、相手のいいようにされるようだ。それなら待てばいい。やってくるものを見失うのは、さすがにあり得ない。

 必死に考え、堪えた。両親以外を待つのは、経験に乏しかった。


「じゃあそれでいい」


 しかし報われた。今度は破浪ポーランが、無造作に向かってくる。油断か何か知らないが、叩き潰すだけだ。


「でええっ!」


 横薙ぎと見せかけ、持ち手を握り変えての振り下ろし。白蔡パイツァイの筋力なくしては叶わぬ動きを、予測されるはずがなかった。


「えっ——」


 だのに、振り上げた斧を奪われた。

 素早く閃いた手斧が、白蔡パイツァイの斧頭を引っ掛けた。まずいと思った時には遅く、力を籠めた両手が柄を握ることはもうなかった。


 彼方で重く跳ねる大斧を視界に映し、肩を極められて地面に顔を着けた。

 手も足も、出なかった。

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