第65話:神の言葉
「これって」
直ちに足下を失うわけでないが、気を払わねばきっと転ぶ。事実、咄嗟に振り返ろうとしてよろめいた。
「ひ——」
発しかけた悲鳴と息を呑むのが、互いを打ち消し合う。残るのは酷く泣いた後のような、喘鳴に似た自身の息遣い。
吸おうとしても、吐こうとしても、風がうまく抜けてくれなかった。苦しさに喉を押さえ、二歩前の
鉄鎧の巨漢と、
赤い色も手伝い、血の池に迷い込んだ心地がする。しかも
走れば数拍の距離だった、この先の扉が見えない。老若男女、腐り具合いもまちまちの、人の姿をした者たちに遮られて。
通路を埋め尽くす屍鬼を前に、揺れる地面とあって、
だが肝心の相手は、必ずしもこちらを向いていない。
屍鬼は奪い合っていた。
腕を。
脚を。
腹を。
爪を立て、食い破り、当たるを幸いに他者の身体をもぎ取る。
指を千切り。
喉笛を吸い。
目玉をしゃぶる。
喰らう者。欠損した己の肘に充てがう者。足りない部品を寄越せと、声なき声で怒気が満ちた。
そうしたところで、新たな指の生える様子はない。失った足先を補えるでもない。
これは違うと気づくのか、奪った部品はいずれ投げ棄てられた。
あらゆる四肢を失い、転がるだけの屍鬼もあった。それは踏み潰され、泥のようになり、地面の
だのに屍鬼の数は減らない。
もはや生き物の粘膜としか見えなくなった壁から、にゅるりと新たな屍鬼が姿を現す。
(これを永遠に……)
誰かが言ったわけでない。しかしおそらく間違いないと、勝手に確信した。
これがこの
「よいしょ!」
のほほんとした声で、錘が打ち下ろされる。二、三体の屍鬼がまとめて、ばらばらの肉片と化す。
そうしたところで、
他と同じく、近づいた屍鬼の何体かが襲いかかる。
その強靱な肉体なら、使い心地もさぞかし良かろう。とでも語るように剥いた目で。
「ぱ、
これ以上を想像もできぬくらいの光景ではあった。
けれどもなぜか、
つまり
しかし、背負い袋を下ろさなかった。安息の術を続けて使えば、歩けぬくらいに消耗してしまう。
それをこの場でやらかしては、目も当てられない。
「何に気をつける?」
何もせぬではと言った励ましに、
「が、頑張ってってこと! 前! 前見て!」
「おお、そうか」
曖昧に頷いた
この男も決して余裕綽々とは見えない。一歩踏み出すごと、
それも時に、半歩退きさえする。
任せきりの自分が歯痒い。
ただ
できるとも思えなかった。人間の姿をした、元は人間の魂という屍鬼を。
そうしないのは、この迷宮へ来て学んだからだ。
(どれも選べない選択を、それでも選ばなきゃいけないこともあるの)
「ごめんなさい……」
両手を合わせ、祈る。許されることはないし、赦されてはいけない。
それでも、散らばした多くの気持ちを一つにすると、この言葉になった。
「なんだ、お前もやりたいのか? 武器あるのか」
また、
「え。いえ、ううん。持ってないの」
一瞬。解釈に戸惑い、任せきりの現状のことと察した。
武器はない。あったとして、あの横に並べば邪魔になる。まさか貸してくれようと言われたら、どうするか。
「息、かけろ」
「ええ?」
「息だ。こいつら、息をかけたら嫌がる」
はあっ、と実演がされた。
跳ねて飛びかかろうとした屍鬼が、かけられた顔を腕で庇う。
べしゃと地面に落ち、汚物を拭うように手をこすりつける。そうするうち、他の屍鬼に踏み潰された。
「分かったわ」
(今は切り抜けるだけを考えなさい)
自身に説教を垂れ、唇を窄め、ふうぅっと細く息を噴く。
ただし無闇に息を噴き続けるのも、喉を痛めそうだった。当たり前の場所ならともかく、腐臭に満ちたここでは。
「……まず、
幼い頃から、何度読んだか知れない。これならば読み
余計なことも考えずに済む。せめてありがたい神様の話を聞いて、屍鬼たちに何か良い巡り合わせがないかと気休めになった。
「お、なんだ。神通力か」
一語ごと、強く吐き出す息に屍鬼が怯む。聞いた通りでしかないのに、にまっと
(神通力なんかじゃない。これは神様の、世界をお創りになったお話)
「ただ進むのみは、歩まぬと同じ。ゆえに
巨漢が占領し、始祖の物語は休まず続く。そうして、二枚目の扉へ辿り着いた。
「
「ふう、ふう」
さしもの
「お、面白いな。それ」
「知らない? 四柱の神様のお話」
ようやく落ち着いた息を使い、面白いと。まるで初めて聞くような感想に驚いた。
「知らない。オレ、字も読めないしな」
「……そう。みんなが知ってるってわけじゃないかも、ね」
字の読めぬ者は珍しくない。だが全ての民に行き渡るほど、書物が充足しているでなし。
多くの者は、僧院の壁に書かれた文章を読む。それがこの物語で、どこの僧院にもあるはずだ。
字を覚えられなくとも、読み聞かせる。親も読めなければ、僧が代わりに。
「
物語の序文はここまでだ。
「
「そうじゃないわ。過ちを犯した人が少しでも安らかに眠れるよう、償いの道を教えてくださる神様よ」
問われて、咄嗟に正しい答えをした。だが、しまったと口を押さえた。
「父ちゃんに聞いた。違うのか?」
「うぅん、間違ってるとは言わないわ。でも違う考え方もできるってこと。もし良ければ、今度ゆっくり話させてほしい」
真実が、必ずしも正解とは限らない。これも最近学んだことだ。
これで実践できているか。言いながらも不安で、
「おお、いいな。聞かせてくれ」
にまっと笑い、目と口を見失う。柔らかそうで、福饅頭に似ていると思った。
「じゃあ開けるぞ」
「ええ、お願い」
すっかりと呼吸を戻し、
「よっ、と」
二枚目の扉も、重々しい音をさせながらもすぐに開いた。
「誰も……」
誰も、何もない。
階段を下りた部屋と同じく、およそ三十歩四方の部屋があるだけだ。いや、正面にも扉があり、壁は脈動する粘膜質のものだが。
「どうする。千の手が居るからな、先には進めないぞ。戻るか?」
「えっ? 戻れないって」
後戻りはできないと聞いたはずだ。
不思議そうに。いないいないばあで、顔を隠した時の赤子のように。
「戻れるぞ。そこが出口だ」
たった今、入ってきた扉の側の、隅。出口と言われても、それらしき物は見えない。扉も隙間も。
(さっきの屍鬼みたいに?)
壁から産み落とされるがごとき、屍鬼たち。あれの逆をすると言うなら、分からなくはない。
思わず感触を妄想し、身震いがした。
「ねえ、他にはないの?」
「他?」
「今あなたが言った、出口? それから、千の手が居る扉。他に通れる所はないの?」
行くわけがない。とは、言えなかった。
もしそちらへ進んでいるなら、
ならば戻るだけだ。この無邪気な戦士が、そんなものはないと答えればすぐに。
「さあな。オレは知らないけど、あるかもな」
(ああ……)
ぶるっと肩が震えたのは、何の印だろう。臭気の不快と恐怖と、焦燥と。我が心ながら、感情が多すぎて把握しきれていない。
「じゃあ探すのは、まず四隅かしら」
目に見えぬ出口が一つあると言うなら、他の三つの隅も調べるべきだ。もちろんここへ辿り着いた他の人間が、何度も調べてはいるはずだが。
何となく、
蠕動に足を取られるのも、はや慣れ始めている。うまく利用すれば、普通に歩くより速く進めた。
予測が外れ、後戻りさせられもしたけれど。
「——あれ?
部屋の中央辺りを横切ろうとした。途端、部屋じゅうの
ここだけでなく、迷宮に入ってからは
「
返事がない。
あれだけの巨漢が動けば気配を見落とすはずがないのに、それも感じなかった。
「ねえ、どこ? 何か言って」
答えの代わりに、ゆっくりと視界が戻り始めた。
夜から朝に移るさまの、時間の進みを早めたように。黒い景色の中に、ぼんやりと黒い輪郭が形を成す。
それは円い、岩だ。
近寄ってみると、底も深い。縁が胸の高さにも拘わらず、背丈の何倍もある。
背すじが冷えて、後退りした。つるつるとした表面を思うと、落ちれば這い上がることは不可能だ。
見回すと、おかしなことに気づく。
天井がない。壁も。星の見えない真っ暗な空が、延々と続いた。足元は例によって、生き物の粘膜を思わせる。
「どこ……?」
発した声が、闇に吸い取られるように消えた。
(何か)
何かないのか。見慣れた物、人、何でもいい。
焦って巡らせた視界に、ふと。親しみのある姿を認めた。
岩の碗の縁。きらきらと赤く艶めく、細長い友人を。
「
駆け寄り、両手で掬い上げた。万が一にも碗の底へ突き落とさぬよう。
目の前へ捧げ持つと、赤い蛇もこちらを向いた。ちろちろと覗かす舌が、久しぶりと言ってくれるようだ。
「ようこそ冥土へ」
「えっ?」
男——だろう。抑揚のおかしな、声変わり前の少年を思わす声。
聞こえたのは頭上。
そう思い、見上げたが違う気がして、地面に目を落とす。どちらにせよ、声の主は居ない。
「まさか
本当にそうとは考えていない。しかし他に候補がなかった。
もちろん幼い蛇は肯定も否定もせず、腕を伝って首に纏わる。
「どこを向いている。我は冥土の主。冥土そのもの。姿を見ようとは、人間に叶わぬこと」
「冥土の主?」
「神様、でしょうか」
「左様。我は冥土の主、
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