第64話:幼い対抗心

破浪ポーラン! 破浪ポーラン!」


 拳で扉を叩く。もはや殴る勢いで。

 朱の強い褐色は何でできているのか、木でも金属でもない。強いて言えば岩を殴ったように、びくともしない感触が似ている。

 どうであれ向こうの透けて見えることはなく、得たものは痛みだけだ。


「ねえ破浪ポーラン! ちょっと! もう、これどうやって開けるの!」


 引っ張るには取っ手が見当たらなかった。ならばと押しても、横へ引いても動かない。腹を立てる理由などないのに、声が荒らぐ。

 いやこれは焦燥だろう。喉をひっくり返しても返事のないことへの。


「居るのか」


 ひとしきり叫び、息が切れた。すると待ち構えたように、白蔡パイツァイが隣へ立つ。扉へ触れ、呼びかけの意味を問う。


「うん、見えた気がして。でも見えるはずないし」


 のっぺりとした扉をどれだけ撫でまわしても、開け方が分からない。

 視界の端の巨漢が不思議そうに見下ろすのは、なんだろうと思う。父母に倣い、嘲りに——ではないはず。


 ともあれ今は扉だ。破浪ポーランが居れば、悩む必要がない。

 身動き取れないことも、双龍兄弟を捜すことも、あの男の居ないことも。


「押したら開くぞ」

「えっ。そう、押すのね」


 単に扉を開けようと苦心するのを眺めて楽しいのか。だとすれば一年分も摂取して、ぽそっと白蔡パイツァイは言った。

 首を傾げる様子からすると、そうではなさそうだが。


「ふっ………………!」


 両足を踏ん張り、渾身の力を両手に与えた。当然に自重の全ても預け、扉を押す。

 しかしやはり動かない。腕組みの白蔡パイツァイも寄りかかっているのに。


「開けたいのか? 開けてやろうか?」

「頼んでいいの?」

「なんだ、早く言え」


 細い目が、笑みの形に弛む。

 無造作に差し出された右腕に、筋肉の形がありありと浮かぶ。「よっ」と気安い掛け声があって、ごろごろと重々しく扉は開く。


「ありがとう」

「——礼か? 開けただけだ」

「私のできないことをしてくれたんだもの」


 白蔡パイツァイにとっては造作もないことだったのだろう。春海チュンハイには百年かけても不可能と思えたけれど。


 ありがとうの言葉がまたどうにも不思議なようで、「なんでだ?」と白蔡パイツァイは独り言を繰り返す。

 その感覚のほうが不思議に思えたけれど、扉の先を見渡すのを優先さす。


「誰も居ない」


 黒蔡ヘイツァイの言った通り、扉の先もまっすぐな通路だった。

 ただし地面や壁の色が真っ赤だ。より強まった臭気もあって、鮮血が撒かれているかと錯覚する。


 死の回廊と呼ぶには名前負けの感もあるくらい、それ以上には何もない。破浪ポーランの姿もだ。


「屍鬼が出てくるぞ。入ったらな」

「そうなの? どうしよう……」


 屍鬼の一体か二体ならば、春海チュンハイでも応じられる気がした。しかしそれには天界の門シャンタンが必要で、術の完成まで待ってもくれまい。


破浪ポーラン! ねえ、居るなら出てきて! あなたが居ないと、どうにもならないじゃない!」


 三十歩ほど向こうへ、また扉がある。喉を痛めるのも構わず、声を張り上げた。

 閉ざされた空間というのに、反響もない。自分が黙ると、この世から音が失われたかと思うくらいに静まり返る。


「ねえ!」


 さらに大きく、見える扉に槍を通す心持ちで叫んだ。

 直ちに訪れる沈黙に、拳を握って耐える。

 破浪ポーランが居ない。都合よく小龍シャオロンが居るはずもない。つまり光明は潰えたと、考えないようにした。


破浪ポーランじゃなきゃいけないのか」

「え?」

「あの先に行きたいんだろ。オレも行けるぞ」


 突然の申し出の意味が分からず、もう一度「え?」と問い返した。すると白蔡パイツァイの唇が不満げに尖る。


「お前、破浪ポーランが居ないと何もできないんだろ。扉も開けられないしな」

「えっ、と。一緒に行ってくれるって言ってるの?」


 拗ねた顔が、たちどころに笑う。にんまりと赤子のごとく。


破浪ポーラン偉浪ウェイランに逆らうんだろ。オレだって父ちゃん母ちゃんの言いつけを逆らうくらいできる」


 唖然として、直ちに返事ができなかった。事情は不明だが、破浪ポーランへの対抗心のようだ。

 しかし。どうも言い分の幼いのは気になるが、願ってもない。


「ちょっと小娘! 何をたぶらかしてんだい!」


 癇気を迸らせ、烏鴉ウヤが叫ぶ。駆けつける彼女を拝礼で迎えた。


白蔡パイツァイ、馬鹿娘の口車に乗るんじゃないよ。儲けにもならないのに、可愛いあんたが怪我する必要はないんだよ。いやあんたは強いからさ、大丈夫だろうけど」


 春海チュンハイの鼻に指を突きつけ、烏鴉ウヤは唾を散らす。

 この女を構うな。息子のお前を愛している。繰り返し、似たような言葉を並べ立てて。


 しばらく白蔡パイツァイは、黙って聞いた。細めた目は居眠りをしているようでさえあったが、母親が息を吐くとすぐに答えた。


「母ちゃん、オレも好きだ。でもオレ、破浪ポーランに負けない」


 力みも抑揚もない声が、罅一つない大岩を思わせる。

 あたふたと「でもね」「だって」と食い下がる烏鴉ウヤだったが、次第に声と顔を落としていった。


「頼んでいいの? あなたのお母様の言う通り、お金や品物は渡せないけど」

「いい」


 断言する白蔡パイツァイの顔に、また疑問が浮かんでいた。

 まさか、銭とは何に使うかまで知らないのでは。そう春海チュンハイも問いたくなる。


(ううん、今は破浪ポーランよ)

 親切。ではないのかもしれないが、頼れそうな鉄鎧の戦士が気分を改めぬうち。

 自身の姑息さを罪に感じながら、足を踏み出す。


 言った通り、着いてきてくれる。

 偉浪ウェイランに何か言わねば、とそこで思い出した。振り返ると、既に扉は閉まっていた。


「あ……」

「どうした?」

「お父様に何も言ってないわ」


 もう一度開けてくれと頼んだつもりだが、白蔡パイツァイは得物の錘を手に前へ進む。


「ねえ、手間をかけさせてごめんなさい。戻れるかしら」

「扉か? こっちからは開かない」

「えっ……」


 酷く怖ろしい言葉の聞こえた気がする。

 開かない。どう解釈しても閉じた扉の先、偉浪ウェイランの居場所へは戻れないという意味になる。

 迂闊を呪い、扉を睨みつけた。


「え?」


 また戸惑いが声として漏れた。含む意味は先と異なるものだ。

 扉が動いた。いや、揺れた。

(違う。脈打ってる)


 扉だけでなく、地面も壁も天井も。僅かながら縮み、緩むのを反復した。

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