第62話:最深層

 おそらく偉浪ウェイランの目に映ったまま、耳に聞こえたまま。

 そう感じられてなおさら、何も言えなかった。話すどころか呼吸の仕方さえ忘れた思いで、しばらくの息苦しさを味わった。


 やがて黒蔡ヘイツァイ烏鴉ウヤが目覚め、いよいよ十二階層へ下りる態勢を整えた。

 数多の探索者たちには到達さえ叶わぬ最深層。そこへ自分が行って大丈夫かと案じる気持ちも、それどころでないと思えてしまう。


破浪ポーランが実の子じゃないって)

 世にそういう例は珍しくない。皇都で親しくする親子でも、あの家とこの家と、と指折り数えられる。


 ただこの屍運びの父子ほど、互いに命を預け合うような親子を知らない。

 しかも破浪ポーランが承知しているか問えば、「言ったってどうしようもねェ」と。


「小娘、何してんだい!」


 白蔡パイツァイの牽く棺桶を見送り、足を動かすのを——いや自分も進まねばならぬのを忘れていた。


 小窓を閉じた棺桶を透かして見る神通力は持ち合わせない。声を発さずに他人と話すのもだ。

(どうして私に教えてくださったのですか)


 聞いてすぐ、問わねばならなかった。しかし疑問に感じたのは、ようやく今。

 とは言え、その時に思いついていても、やはり問えなかったろう。


「すみません」


 ため息を深呼吸に装い、白蔡パイツァイの半身しか見えなくなった階段へ急いだ。


 一段ずつ、慎重に。でなければ動揺に震える膝を御しきれない。

 六段目を踏むと、十二階層の景色が視界に入った。途端、鼻を衝く臭気が襲う。


 眉をひそめる、だけで済まない。僧に許された広い袖を腕に巻きつけ、鼻と口を覆った。

 刺すのとも叩きつけるのとも違う痛みの、鼻腔を冒す感覚が忌まわしい。


 だが落ち着いて思えば、似た臭いを知っていると気づく。度合いは桁違いだったけれども。

(これ、戦場の……)


 春海チュンハイが戦のあった土地へ赴いたことはない。ゆえに正確には、戦場から運んだ屍の臭いだった。

 それも夏の陽射しに腹わたを晒したまま数日も放られ、沸騰した肉の溶けかけたような。


 僧院で対面した時には香が焚かれたし、表面の汚れは拭き取られていた。

 しかし喉の奥へ腕を突っ込まれ、臭いの苗を植え付けられるがごとき痛烈な臭気。それが一つどこからかでなく、十二階層の全体に漂っていると見えた。


「おやおや。ぬるま湯の中じゃ、こんな臭いはしなかったかねえ? いいんだよ、逃げ帰ったって。それでも約束の物は貰うけどさ」


 黒蔡ヘイツァイと並んで、烏鴉ウヤが笑う。意識して作っているのなら、芸術的と言える小馬鹿にした顔で。


 挑発に乗ることはない。が、片腕を封じたままでは危ない。

 臭いだけでなく、十二階層は今までと違う場所ということが見た目にも分かる。


 縦にも横にも三十歩ほどの広い部屋。その中央へ階段は下りた。

 赤黒く、硬い壁や床は上と変わらない。階段から正面の壁に、奥へ伸びる通路があった。

 その長さはまた三十歩ほどあろうか。突き当たりに、扉が見えた。


 木製か金属製かまでは、遠くて分からなかった。しかしもちろん、そんなことは大した問題でない。

 扉のあることそのものに、春海チュンハイは驚いた。


 ものさしで引いたように、直線で形作られる迷宮。木の根で吊り下げたような、宝袋。

 何者かの意思を否定することは難しいが、逆にその者の存在を感じることはなかった。


(この先に居るの?)

 あそこから先は誰かの部屋だ。扉とは、そういう物だろう。

 誰が。あるいは何が。想像もつかないのに、なぜか確信めいて感じた。


「見ての通り、あの先が死の回廊さ。一本道だけど同じ扉が四枚あってね、四枚目の前には千の手が待ってる」


 扉へ首を向けつつ、にやにやと声なく黒蔡ヘイツァイは笑う。

 様子はなるほど、よく分かる。けれど言い方が気に食わない。


「あの。小龍シャオロンはどこで?」

「二枚目の向こうだね」


 短刀の鞘と福饅頭と、腹に入れていて良かった。でなければ、きっと「そうですか」などとぼんやり答えたに違いない。


「そこまで連れていっていただけるんですよね?」

「何のためにだい?」


 やはり。

 約束を違えようとする黒蔡ヘイツァイが、理解に苦しむという表情を作った。


「何のって、そう話したでしょう? 祝符と銭を全部あげれば、小龍シャオロンとはぐれた場所までと」

「そうだねえ。だからあそこに見える扉の、もう一つ向こうの扉と教えてやってるじゃあないか。あたしらも万全じゃないんでね、これが限界ってとこだよ」


 ただの道案内なら、それで構わない。一歩先に死の待ち受ける迷宮で、通る理屈でなかった。


「そんな」


 と弱気を声にしたのも良くない。くけけと嘲笑を撒きながら、烏鴉ウヤが棺桶に近づいて座る。


「あんた、可愛いお嬢ちゃんが困ってるじゃあないかさ。あんまり酷いことをお言いでないよ」


 笑いを堪えるふりもわざとらしく、彼女は棺桶の蓋を小突いた。

 階段を下りるのにかなり揺れた、偉浪ウェイランも起きているだろう。体力が戻らず、狭い棺桶の中ではどうもできまいが。


「でもさ、万全じゃないってのも本当だよ。それを押そうってんだ、もう少しご褒美をねだってもいいんじゃないかねえ?」


 もう出せる物などないのに、この夫婦は何を言っているのか。

 必死に理解しようとしたが、どう受け止めて良いやら見当もつかなかった。


(父上やお父様より歳上のようなのに、そんな人が無理を言うなんて)

 こんな時に従うべき道を、父から教わっていない。頼れる誰かもこの場になく、春海チュンハイの目はあちこち彷徨う。


「……ねえ。あなたはどう思うの?」


 苦し紛れではあった。助けてもらおうというより、考える時間を稼ぐ意味が強かった。

 母親の脇で、感情の読めぬ細い目で見下ろす白蔡パイツァイに問うたのは。

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