第60話:独り言

 移動を再開し、十一階層を横断したころ。ぼうっとした意識に時間の経過は曖昧だが、黒蔡ヘイツァイ一家は食事を三度とった。ゆえに一日以上が過ぎたのだろう。


 すると最後に肉を食ってから、二日近くになる。春海チュンハイの空腹は絶頂を迎えた。

 胃に何もないと自覚したのは、気の遠くなるほど前。それは自身に苦行を課した気分で、吐き気を堪えていればやり過ごせた。


 だが今は、何か食いたいとしか考えられない。誰か棘付きの沓で、腹の中を踏み荒らしているようだった。鋭い痛みと軋むような重い痛みが同時に。


 形があれば。いや、水もだ。喉を通りさえすれば、どんな物でも。とにかく胃に物を入れれば、きっと落ち着く。

 湧き上がり、膨らみ続けるその思いを、なけなしの気力で押さえつけた。でなければ飛び散った屍鬼の腕に、むしゃぶりつきそうだった。


(いよいよの時は木の皮を剥げば食べられるって、迷宮の壁じゃ無理かな……)

 足を止める都度、地面や壁をじっと見つめた。そんな調子で白蔡パイツァイの牽く棺桶と並んで歩くのを、後ろから襲われなかったのは幸運以外の何ものでもない。


 下りの階段を目前、黒蔡ヘイツァイ一家の眠る順番を決める声も遠く聞こえた。先に息子が眠り、交代して父親が眠ると。


 どうやらここで、本格的な休憩とするらしい。二枚しかない空虚の祝符は温存して。

 だが春海チュンハイは、おちおちと眠っていられない。魔物の心配もだが、目を覚ました時には置き去りだった、という事態が怖ろしい。


 白蔡パイツァイの放り投げた縄を拾い、直角に壁の立つ隅へ棺桶を移動させる。一方には黒蔡ヘイツァイ一家が居るのだから、残るもう一方だけを警戒すればいい。


 という計算のもとに下ろした腰は、ほぼ尻もちの勢いがついた。痛いと感じる間もなく、眠りに落ちる。

 移動の際には閉じている、棺桶の蓋を開けることもできなかった。


 それから幾ばく、迷宮の闇の取り憑いたような視界に気づいた。

 泥をこそげ落とす要領で、目をこじ開ける。不躾にも、棺桶へ突っ伏していたらしい。


「出てくるなって言ったじゃねェか」


 小さく、誰かが言った。くぐもって聞こえづらいが、間違いなく。

 見回すと白蔡パイツァイだけが起きていて、こちらを向いてもいない。


「なんで俺の言うことを聞かねェ」


 また。しかし今度は、棺桶の中からと分かった。

(あっ、お父様!)

 迅雷の心持ちで。実際にはのろのろと、やっとの動きで。小窓の掛け金を外す。


 錆びついた関節を強引に動かし、覗いた。偉浪ウェイランはじっとり汗ばみ、食いしばった歯がぎりぎりと鳴る。

 苦しそう。いや、いっそこのまま死にそうな形相に思えた。


(起こしたほうがいいのかな)

 伸ばした手に躊躇が纏わり、中途で止まる。

 まま、数拍。棺桶の中、偉丈夫が全身をびくっと痙攣させた。


破蕾ポーレイ——!」


(誰?)

 目を見張りながらも聞き取った。孤高な雰囲気のある偉浪ウェイランが、人の名を。おそらく女の名を、寝言に発したことに二度驚く。


 固く瞑られた眼を、じっと見つめた。

 破浪ポーランの母かもしれない。だからと春海チュンハイに関わりはないけれども。苦しげな様子を思えば、気にするなというのが無理な注文だ。


「おい」

「……はい」

「俺ァ、何か言ったか」


 偉浪ウェイランの目覚めは、棺桶の蓋を外すように潔い。

 しかと交わる視線を逸らさず、聞かぬふりもしなかった。


「きっと破浪ポーランのお母様の名を」


 思いついたまま言ってみると、幾つかの問いと答えが束ねられていた。

 後でどれだけ謝れば足りるか、想像もつかない。だが、取り消す気にはならなかった。


「ふん」


 偉浪ウェイランは乱れた息を整え、咳払いをし、苦痛の顔を平常に戻していく。

 けれども続けて何かを言う気配が見えず、やはり失敬でしかなかったと春海チュンハイは肩を窄めた。


 見つめ合っているようで、互いに遠くを見透かしているような。居心地の悪さに根負けして、偉浪ウェイランの顔を拭いてやることを思いついた。


 清潔とは言えぬ手拭いだが、脂汗を滲ませたままよりは良かろう。

 声をかけず額に当てると、偉浪ウェイランも嫌がりはしない。


 頬までを終え、手拭いの面を変えようと畳み直した。すると小窓から、「食え」と手が突き出る。

 もちろん、手を食えと言うのでない。濃い褐色の、干し肉のような物が握られた。


「どこにこんな物を」

ニカワで固めてはねェ、油で煮ただけだ。ずっと噛んでりゃ柔らかくなる」


 膠や煮固めは、革細工での加工の話だ。それは分かるが、食えと言われたことと結びつかない。


 しかし干し肉を譲ってくれると言うなら、断るだけの余裕もなかった。逸って奪い取る勢いを、どうにか常識的なところへ減じるのがやっと。


「——これ短刀の鞘ですか」

「あァ、意外とイケる。色々と染みて・・・・・・な」


 縦に割ったようで、刃を収める独特の形が見て取れた。偉浪ウェイランの汗を吸い、魔物の体液にまみれ、雨風や泥に晒されたはずの品。


 食べていいのか迷ったのは、汚いからではなかった。

(でも)

 食わねば、無駄になる。先んじて手本を見せてくれたのに倣い、端を小さく噛み千切った。それでも残る力の渾身を振り絞って。


「ええ、意外とおいしいです」


 味は何とも、はっきりしたものはない。強いて言えば、転んで土を舐めた時と同じ。

 反面、匂いはしっかりと感じる。塩の足らない燻製肉とよく似ていた。


「昔、破蕾ポーレイって女が居た」

「えっ」


 唐突に、問題の名が聞こえた。咄嗟に声を上げたものの、偉浪ウェイランはまっすぐに天井を見上げる。


(独り言、ね)

 以降、口を塞いでおくには丁度いい代物が手にあった。再び棺桶に伏せ、硬い鞘を黙々と噛みしだく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る