第60話:独り言
移動を再開し、十一階層を横断したころ。ぼうっとした意識に時間の経過は曖昧だが、
すると最後に肉を食ってから、二日近くになる。
胃に何もないと自覚したのは、気の遠くなるほど前。それは自身に苦行を課した気分で、吐き気を堪えていればやり過ごせた。
だが今は、何か食いたいとしか考えられない。誰か棘付きの沓で、腹の中を踏み荒らしているようだった。鋭い痛みと軋むような重い痛みが同時に。
形があれば。いや、水もだ。喉を通りさえすれば、どんな物でも。とにかく胃に物を入れれば、きっと落ち着く。
湧き上がり、膨らみ続けるその思いを、なけなしの気力で押さえつけた。でなければ飛び散った屍鬼の腕に、むしゃぶりつきそうだった。
(いよいよの時は木の皮を剥げば食べられるって、迷宮の壁じゃ無理かな……)
足を止める都度、地面や壁をじっと見つめた。そんな調子で
下りの階段を目前、
どうやらここで、本格的な休憩とするらしい。二枚しかない空虚の祝符は温存して。
だが
という計算のもとに下ろした腰は、ほぼ尻もちの勢いがついた。痛いと感じる間もなく、眠りに落ちる。
移動の際には閉じている、棺桶の蓋を開けることもできなかった。
それから幾ばく、迷宮の闇の取り憑いたような視界に気づいた。
泥をこそげ落とす要領で、目をこじ開ける。不躾にも、棺桶へ突っ伏していたらしい。
「出てくるなって言ったじゃねェか」
小さく、誰かが言った。くぐもって聞こえづらいが、間違いなく。
見回すと
「なんで俺の言うことを聞かねェ」
また。しかし今度は、棺桶の中からと分かった。
(あっ、お父様!)
迅雷の心持ちで。実際にはのろのろと、やっとの動きで。小窓の掛け金を外す。
錆びついた関節を強引に動かし、覗いた。
苦しそう。いや、いっそこのまま死にそうな形相に思えた。
(起こしたほうがいいのかな)
伸ばした手に躊躇が纏わり、中途で止まる。
まま、数拍。棺桶の中、偉丈夫が全身をびくっと痙攣させた。
「
(誰?)
目を見張りながらも聞き取った。孤高な雰囲気のある
固く瞑られた眼を、じっと見つめた。
「おい」
「……はい」
「俺ァ、何か言ったか」
しかと交わる視線を逸らさず、聞かぬふりもしなかった。
「きっと
思いついたまま言ってみると、幾つかの問いと答えが束ねられていた。
後でどれだけ謝れば足りるか、想像もつかない。だが、取り消す気にはならなかった。
「ふん」
けれども続けて何かを言う気配が見えず、やはり失敬でしかなかったと
見つめ合っているようで、互いに遠くを見透かしているような。居心地の悪さに根負けして、
清潔とは言えぬ手拭いだが、脂汗を滲ませたままよりは良かろう。
声をかけず額に当てると、
頬までを終え、手拭いの面を変えようと畳み直した。すると小窓から、「食え」と手が突き出る。
もちろん、手を食えと言うのでない。濃い褐色の、干し肉のような物が握られた。
「どこにこんな物を」
「
膠や煮固めは、革細工での加工の話だ。それは分かるが、食えと言われたことと結びつかない。
しかし干し肉を譲ってくれると言うなら、断るだけの余裕もなかった。逸って奪い取る勢いを、どうにか常識的なところへ減じるのがやっと。
「——これ短刀の鞘ですか」
「あァ、意外とイケる。
縦に割ったようで、刃を収める独特の形が見て取れた。
食べていいのか迷ったのは、汚いからではなかった。
(でも)
食わねば、無駄になる。先んじて手本を見せてくれたのに倣い、端を小さく噛み千切った。それでも残る力の渾身を振り絞って。
「ええ、意外とおいしいです」
味は何とも、はっきりしたものはない。強いて言えば、転んで土を舐めた時と同じ。
反面、匂いはしっかりと感じる。塩の足らない燻製肉とよく似ていた。
「昔、
「えっ」
唐突に、問題の名が聞こえた。咄嗟に声を上げたものの、
(独り言、ね)
以降、口を塞いでおくには丁度いい代物が手にあった。再び棺桶に伏せ、硬い鞘を黙々と噛みしだく。
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