第59話:幾多の敵
鎧姿の巨漢は、無邪気に笑む。と次には何を思ったか、背に括った得物を取り両手で握った。
金属の艶で黒光りする、当人の腕と同じ長さを備えた柄。先端に、やはり当人の頭と同等の球。
いや、およそ球形であるものの、ぐるりと刃が取り巻く。ちょうど帆立のヒモのように。
多少の差異はあれど、一般に
それを無造作に、さらには無防備に振り上げる。
「待ってろ
あまりの大音声が耳の奥を殴りつけた。痛みを伴い、きんと甲高い悲鳴を長く残す。咄嗟に塞いだにも拘らず。
かようの意気込みを以て、掲げられた錘はどこへ。無論、
事前の打ち合わせでもあったがごとく、先の闇から屍鬼が姿を見せた。
腐り落ちた顔面から、人となりを読むのは難しい。十人並みの背丈に、でっぷりと下腹を肥えさせた男の屍。
剥き出しの歯を鳴らし、無謀にも鉄鎧に腕を伸ばす。ただただ、生ある者を怨むように。
「ひっ!」
悲鳴を上げた、のは
豆腐に拳を落とせば、ああもなろうか。屍鬼の少ない肉片が飛び散り、四肢もばらばらに。
頭蓋と背骨は砕け、胴の肉と渾然に泥と化す。闇の向こうから、続く屍鬼が踏み越えた。
湿り気を帯びた鈍い足音。横殴りの錘によって臓腑を撒き散らし、殺風景な迷宮に束の間の模様を飾る屍鬼。
数体がまとめて圧され、十本以上もの手足蠢く奇怪な創作物となった屍鬼。
「うふっ。うふふふふ」
◇◆◇
迷宮の外と中と、それは変わらなかった。
一度に押し寄せた十数体の屍鬼を撥ね退ける息子が最後尾なのは、不意の襲撃にも鎧兜が有効だからと、見るからに分かる。
ではまともに正面から出くわした時、どうするのか。姿勢の悪い、お世辞にも偉丈夫とは呼べぬ
知る機会は、十一階層へ下りて早々に訪れた。
花に色水を吸わせればどうなるか、を実験してもらった時と似たような心持ちで
「ひひっ」
人知れず、畦から滲み出す泥水さながら。
同時に両袖から、それぞれ長い紐のような物が垂れ下がった。じゃらじゃらと鳴る音をして、鉄鎖と知れた。
先に付いた親指大の分銅が回り、これは心地良く風を切って唸る。
相対すのは、人の子より巨大な大鼠。人の顔でないことに安堵した、とは
「こいつは旨いよ」
という
ゆえに、逃してなるかという気持ちもあるのかもしれない。
跳ねて避ける敏捷さは、しかと見ていた
だが
重心の低い四つ足の大鼠が、どうと転がった。それでも長い牙を剥き、近づくなと威嚇が激しい。
おそらく尻の側から近寄っても、器用に動く胴と首が伸び、咬まれること必至だ。
それを「けえっ!」と、けたたましく。名に似合ったかけ声で、
とどめは
いや短刀と言っても、見てくれは針に近い。長く深く刺すことだけを目的とした、陰湿な武器だ。
「言っとくけど、あんたたちの分はないよ」
さっそく、解体された大鼠が炙られる。宝袋の残骸を薪に明々と燃える火は、なぜか心を落ち着かせた。
それも
「何だい、その不満そうな顔は。頼まれたのは死の回廊まで連れてくってだけでね、なのに縁起の悪い棺桶まで牽いてやってる。この上、飯まで世話になろうってのか」
目を吊り上げた女が唾を飛ばす。動けぬ
力任せに大鼠の皮を剥ぎ、意外と器用に関節で切り分けたのも。
「いえ、仰る通りです」
「そうだろう?」
焚き火を囲む一家から離れ、棺桶に寄りかかって座る。
香ばしく焼けた煙。滴る脂の燃える匂い。はしたないと理解していても、まるで関係なく腹の虫が騒いだ。
前金に、と
しかしそれだけで済まず、食料と祝符も残らず寄越せと言われた。
そもそも食料は尽きていたが、丸々十枚を残していた
「まあまあ、あたしらも意地悪く言うわけじゃない。戦えないお前たちより先に食うのは当然って話だよ。残ったら食うがいいさ」
「ありがとうございます」
さすが夫の言葉には、
なにせ子山羊と同じくらいの肉量だ。彼らにも温情はあるらしいと
それはほんの僅かな時間。焚き火が燃え尽きるより前に、九割方を
(少しでも期待するのが、やっぱり馬鹿だったということね)
あれからずっと黙ったままの
十二階層の最奥まで、どれほどの距離があるのか。問うてみようとして、やめておいた。
上層の一つを抜けるのにも半日以上を要するのだ、それより長いことは分かっている。
(魔物を退けてもらっても、また別の敵に遭うとは思わなかったわ)
せめても腹を膨らまそうと、水袋を手に取る。山羊の胃袋から作られた丈夫な品だ。
ただ、中身がなくなればそれまで。新たに湧き出すことはない。
もう三割ほどに減った水量を、口もつけずに腰へ戻した。
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