第58話:人の中身
「それは……」
もう帰るという相手を引き留めるのに、何を与えれば良いか。共に戦えると言ったところで、さほどでなく。利得と言うなら意味を成さない。
ならば単純明快に、差し出せる物は一つだけだ。
「これを全部、ではどうでしょう。路銀に使ったので銀銭や銅銭入りですが、金銭の七、八枚分はあるはずです」
厳重に結わえた銭入れを腰から外し、突き出して見せる。三人家族なら、並みの料理屋で一年近くも食える額。
双龍兄弟の例を思うと、深層へ潜る探索者は銭持ちらしい。その程度、と鼻で笑われるかもしれない。
瞑りたくなる眼をこじ開け、睨むように
「ふん――それはとても魅力的だねえ」
良かった。
いささか驚いた風でもある
「じゃあ」
「でもね」
違う。続けて聞かされるのも、肯定だったはずだ。
否定の言葉を聞きたくない。それでは
「あははっ。あんた、どこのぬるま湯でお育ちのお嬢さんだい?
笑い屋の声を掻き消すくらい高らかに、
何を言われたやら、指さす女を見返すしかなかったが。
「分からないかい? それだよ、その素直な顔さ。ごまかせってんだよ、その点だけは
(そんなこと……)
今、この場で、三人の命がかかる現実を前に、なぜこんなくだらないことを言えるのかと。
「まあね、
「あたしらは、このまま帰らせてもらう。お嬢ちゃんには帰る方法がない。するとまた、あたしらが下りてきた時、その銭は宝袋に入ってる」
だから助けてやっても得にならない、とは声にしなかった。
背を屈めた低い視線が上目遣いで窺う。ずっと値踏みされているようで、悪寒に震えがきそうだ。
「十階層へ下りる連中は、あたしらに追いつこうと必死さ。だから横取りされる心配もないし、きっと当分は下りてこないし」
やはり頼む相手でなかった。悔やむ
にぃっと横に引っ張られた口に、細く歯が覗いた。
全身、一斉に鳥肌が立つ。
生きた人間が。
言って良いわけがない。
(なんて思うのは、私の勝手な理屈なのね)
もはや選ぶ余地のないことを悟った。
「分かりました。でも他にお渡しできる物がありません。ですから私が、何でも言うことを——」
聞き入れてもらえねば、もはやこれまで。
迷いはなかった。神に祈ると同じに両手を合わせ、
厭らしく、忌わしく、歪んで曲がった唇が開きかけた。
「ちょっと待ちやがれ」
(どうして?)
いつの間に目を覚ましたか、にでなく。子を救いに行く話を、なぜ
これでどうにか、と願う気持ちに水を差されたようで。八つ当たりと分かっていても、振り返る目が鋭くなってしまう。
「女。あんな大馬鹿のために、ろくでもねェこと言うんじゃねェよ」
「ろくでもって。でもそれじゃあ」
「いい。ちィと黙ってろ」
棺桶から上体を起こす。全く健常な者のように、すっと。
縁へ肘を突き、顎を支え、いかにもふてぶてしく。
「いい歳拾って、若い女をからかうんじゃねェ」
「からかう? あたしはいつだって本気だよ。今もこっちから頼んだわけじゃないし、条件が折り合えば労力って商品を出す。何もおかしなことはないだろうさ」
「ハッ、まあいい。この女の頼みを聞いてくれりゃあ、代わりに俺が支払おうじゃねェか」
「お前さんが?」
今にも噛みつきそうな睨みから、小馬鹿にした笑声混じりの声。
だが怖いと思う反面。自分の胸を締め付けていた何かが外れるような、安らぐ心地が温かくもある。
「あァ、お前の欲しがってるもんだ。教えてやる、この迷宮の生まれた理由を」
「……何だって?」
あえて、だろう。
旨い菓子をどこで買ったか。という秘密であったとしても、軽薄が過ぎる。
けれども
迷宮に潜る最大の目的の一つ。双龍兄弟はどうでもいいようだったが、それを条件にされては。
「馬鹿を言うんじゃないよ、どうしてお前さんが知ってるって言うんだ。だいいち知ってりゃあ、とっくに取り立てられてなきゃおかしい」
皇帝直属の護衛を担う。地位、名誉、報酬のどれを取っても文句のない職と言える。
何ぞごととなれば危険はあろうが、迷宮よりもというのはそうそうあるまい。
「興味ねェ。
「興味ないだって? 歳を食ってりゃそれなりの待遇ってのがあるもんだよ。指南役とか、参謀とか。ものを知らないってのは度しがたいね」
唾を散らして捲し立てる。のは、
「……それが嘘だったらどうするね」
「欲張りだな。まあいい、嘘じゃなくても千の手を倒す方法を教えてやる」
上目遣いは変わらない。しかし
あとひと押し。確証のないのが、迷わせているようだ。
ならばやはり自分が。もう一度の覚悟を決めようとする
「
鉄兜を載せた真四角の顔は、地面へ枝きれで描いたように動かない。
図体に似合わぬ細い目が、ぎろっと
「そうか、残念だな。死の回廊を越えるには、いい機会だろうに」
断るなら用はない。そう言うように、
「ふん。口からでまかせだよ」
誰にともなく、
けれども進めなかった。肩をつかみ、引き留める者が居たために。
「父ちゃん、行こう。オレ、行きたい。
つかんだ手を拝礼の形にした
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