第58話:人の中身

「それは……」


 もう帰るという相手を引き留めるのに、何を与えれば良いか。共に戦えると言ったところで、さほどでなく。利得と言うなら意味を成さない。

 ならば単純明快に、差し出せる物は一つだけだ。


「これを全部、ではどうでしょう。路銀に使ったので銀銭や銅銭入りですが、金銭の七、八枚分はあるはずです」


 厳重に結わえた銭入れを腰から外し、突き出して見せる。三人家族なら、並みの料理屋で一年近くも食える額。


 双龍兄弟の例を思うと、深層へ潜る探索者は銭持ちらしい。その程度、と鼻で笑われるかもしれない。

 瞑りたくなる眼をこじ開け、睨むように黒蔡ヘイツァイを見つめる。


「ふん――それはとても魅力的だねえ」


 良かった。

 いささか驚いた風でもある黒蔡ヘイツァイの返答に、安堵の息を吐く。思わず笑みを零した気もする。


「じゃあ」

「でもね」


 違う。続けて聞かされるのも、肯定だったはずだ。

 否定の言葉を聞きたくない。それでは破浪ポーランや双龍兄弟を救えない。


「あははっ。あんた、どこのぬるま湯でお育ちのお嬢さんだい? 杭港ハンガンじゃあ三つの子だって、もう少しは計算ってものを知ってる」


 笑い屋の声を掻き消すくらい高らかに、烏鴉ウヤは笑う。

 何を言われたやら、指さす女を見返すしかなかったが。


「分からないかい? それだよ、その素直な顔さ。ごまかせってんだよ、その点だけは破浪ポーランを大したもんだって認めてもいい」


(そんなこと……)

 烏鴉ウヤが何を言っているか分からなかった。

 今、この場で、三人の命がかかる現実を前に、なぜこんなくだらないことを言えるのかと。


「まあね、烏鴉ウヤの言うことも正しいよ。今後のためにお嬢ちゃんも、そういうところは知っといたほうが得ってもんだ」


 黒蔡ヘイツァイの失笑は誰に向けたものか。「どうでもいいがね」と加えられたのに、春海チュンハイも頷く。


「あたしらは、このまま帰らせてもらう。お嬢ちゃんには帰る方法がない。するとまた、あたしらが下りてきた時、その銭は宝袋に入ってる」


 だから助けてやっても得にならない、とは声にしなかった。

 背を屈めた低い視線が上目遣いで窺う。ずっと値踏みされているようで、悪寒に震えがきそうだ。


「十階層へ下りる連中は、あたしらに追いつこうと必死さ。だから横取りされる心配もないし、きっと当分は下りてこないし」


 やはり頼む相手でなかった。悔やむ春海チュンハイに「ねえ?」と、黒蔡ヘイツァイは笑う。

 にぃっと横に引っ張られた口に、細く歯が覗いた。


 全身、一斉に鳥肌が立つ。

 生きた人間が。春海チュンハイの倍以上も経験を経た大人が、こんなことを言うものか。

 言って良いわけがない。


(なんて思うのは、私の勝手な理屈なのね)

 もはや選ぶ余地のないことを悟った。黒蔡ヘイツァイはまた何かの方法で、手練れの探索者が深層へ下りられぬようにするつもりだ。


「分かりました。でも他にお渡しできる物がありません。ですから私が、何でも言うことを——」


 聞き入れてもらえねば、もはやこれまで。

 迷いはなかった。神に祈ると同じに両手を合わせ、黒蔡ヘイツァイを見つめる。


 厭らしく、忌わしく、歪んで曲がった唇が開きかけた。


「ちょっと待ちやがれ」


(どうして?)

 いつの間に目を覚ましたか、にでなく。子を救いに行く話を、なぜ偉浪ウェイランが止めるのだろう。


 これでどうにか、と願う気持ちに水を差されたようで。八つ当たりと分かっていても、振り返る目が鋭くなってしまう。


「女。あんな大馬鹿のために、ろくでもねェこと言うんじゃねェよ」

「ろくでもって。でもそれじゃあ」

「いい。ちィと黙ってろ」


 棺桶から上体を起こす。全く健常な者のように、すっと。

 縁へ肘を突き、顎を支え、いかにもふてぶてしく。偉浪ウェイランの指が黒蔡ヘイツァイをさす。


「いい歳拾って、若い女をからかうんじゃねェ」

「からかう? あたしはいつだって本気だよ。今もこっちから頼んだわけじゃないし、条件が折り合えば労力って商品を出す。何もおかしなことはないだろうさ」


 黒蔡ヘイツァイから、笑みが消える。罅割れた田へ水を撒いたより静かに、跡形もなく。


「ハッ、まあいい。この女の頼みを聞いてくれりゃあ、代わりに俺が支払おうじゃねェか」

「お前さんが?」


 今にも噛みつきそうな睨みから、小馬鹿にした笑声混じりの声。偉浪ウェイランもやはり、春海チュンハイの身近な人間には居ない。


 だが怖いと思う反面。自分の胸を締め付けていた何かが外れるような、安らぐ心地が温かくもある。


「あァ、お前の欲しがってるもんだ。教えてやる、この迷宮の生まれた理由を」

「……何だって?」


 あえて、だろう。偉浪ウェイランは薄っぺらく、耳垢をほじくりながら告げた。

 旨い菓子をどこで買ったか。という秘密であったとしても、軽薄が過ぎる。


 けれども黒蔡ヘイツァイは、あからさまに態度を変えた。

 迷宮に潜る最大の目的の一つ。双龍兄弟はどうでもいいようだったが、それを条件にされては。


「馬鹿を言うんじゃないよ、どうしてお前さんが知ってるって言うんだ。だいいち知ってりゃあ、とっくに取り立てられてなきゃおかしい」


 皇帝直属の護衛を担う。地位、名誉、報酬のどれを取っても文句のない職と言える。

 何ぞごととなれば危険はあろうが、迷宮よりもというのはそうそうあるまい。


「興味ねェ。破浪ポーランもな。お前はあるんだろ? その歳になって、どうしようってのか知らねェが」

「興味ないだって? 歳を食ってりゃそれなりの待遇ってのがあるもんだよ。指南役とか、参謀とか。ものを知らないってのは度しがたいね」


 唾を散らして捲し立てる。のは、黒蔡ヘイツァイだけ。

 偉浪ウェイランは耳糞を吹き飛ばし、強いて答えたと言えばあくびでだけ。


「……それが嘘だったらどうするね」

「欲張りだな。まあいい、嘘じゃなくても千の手を倒す方法を教えてやる」


 上目遣いは変わらない。しかし黒蔡ヘイツァイの表情に、算盤そろばんが透けて見える。


 あとひと押し。確証のないのが、迷わせているようだ。

 ならばやはり自分が。もう一度の覚悟を決めようとする春海チュンハイを横目に、偉浪ウェイランの指先が方向を変える。


白蔡パイツァイ。何だか言ってたな、十三階層へ下りるんだったか? どうだった」


 鉄兜を載せた真四角の顔は、地面へ枝きれで描いたように動かない。

 図体に似合わぬ細い目が、ぎろっと偉浪ウェイランを睨む。しかし答えようとする気配は見えなかった。


「そうか、残念だな。死の回廊を越えるには、いい機会だろうに」


 断るなら用はない。そう言うように、偉浪ウェイランは寝転ぶ。わざとらしく両脚を高く上げて組み、さも余裕げにぷらぷらと揺らす。


「ふん。口からでまかせだよ」


 誰にともなく、黒蔡ヘイツァイは言い捨てる。さっと踵を返し、地上への帰り道を向く。

 けれども進めなかった。肩をつかみ、引き留める者が居たために。


「父ちゃん、行こう。オレ、行きたい。破浪ポーランより先に」


 つかんだ手を拝礼の形にした白蔡パイツァイに、やがて黒蔡ヘイツァイは頷いた。

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