第57話:無謀な交渉

 黒蔡ヘイツァイ一家は過ぎ去りつつあった。先頭の黒蔡ヘイツァイが、行く先の闇まで二、三歩。

 一斉に足を止め、振り返る。中でも烏鴉ウヤが早かった。


 目と目が合い、あちらの口もとが緩む。皮肉げに、笑った? と思う次の瞬間、風が唸る。

 耳のすぐ傍を、何かが過ぎた。


「おや。あんた、破浪ポーランの連れてたお嬢ちゃんだねえ。急に後ろからなんて、お行儀の悪いことだよ。驚いちまったじゃないかさ」


 素早く、烏鴉ウヤの右手が動いたのには気づいた。礫なり刃物なりを投げるには足らない、僅かな動作。


 しかし現実、春海チュンハイの間際を狙った何かが飛び、およそ十歩分の同じ道すじを戻った。

 細く長い、しなやかそうな指が受け止める。ムチだ。


「だから今のは事故だよ。相手が誰かたしかめるより、自分の身を守るほうが先だからねえ」

「——すみませんでした」


 迷宮へ潜った人間同士、物を奪ったり危害を加えれば護兵に捕まる。

 だが例外もある、と教えてくれたらしい。いきなり負傷さす前に、わざわざ。

 謝礼の意味も籠め、神妙を心がけた拝礼で許しを乞う。


「なんだ、破浪ポーランはどうしたんだい? 小龍シャオロンの代わりは居るのにさ」


 舐るような視線が、春海チュンハイから偉浪ウェイランへ移った。

 気味の悪さに、それだけで逃げ出したい。だが今は、自身の弱気に構っていられぬ言葉を聞いた。


「おい烏鴉ウヤ

「いいじゃないか、あんた。別にあたしら、法に触れることは何ぁんにもしちゃいない」


 咎める黒蔡ヘイツァイをも意に留めず、烏鴉ウヤは言い放つ。喉の奥の忍び笑いと混じり、夜の田圃の雨蛙を思わす声で。


「やっぱり、あなた方が連れて行ったんですね。死にかけた小龍シャオロンを。結界の中から」

「いいや、違うよ。何一つね」


 けけっ、と癇に障る笑声。

 善悪を論じても意味のない相手とは既に知った。肝心なところだけ言ってくれれば良いものを、烏鴉ウヤは愉しげに揺れるばかり。


「責めるつもりはありません。私たちは双龍兄弟を捜しに来たから、やっと見つけた小龍シャオロンが心配なだけ」

「素から責められる謂れなんてないからねえ。本当はあたしらが悪いけど、見逃してやるなんて言い方されちゃあさ」


 目の前の誰かの首を括る格好で、烏鴉ウヤは笞を弄ぶ。

 思わず春海チュンハイも、自身の首を撫でずにおれない。


「本当にそんな気はないんです。破浪ポーランだって——まだ一人で捜しているくらいで」

「さあて」


 秘密の遊び場を独り占めにする子供のごとく、愉悦に満ちた烏鴉ウヤの眼。これが近所に居たなら、きっと成人まで僧院を出ずに過ごしたろう。


 もったいぶり、そして最後までまともに答えはしない。春海チュンハイにさえそういう心積もりが見て取れ、年長なのにと臍を噛む。


烏鴉ウヤ、そのくらいにしておきな」

「ええ? だってあんた、この娘ったら礼儀を知らないにもほどがあるよ」

「いいから。あたしらだって、祝符を使いきっちまった。遊んでる余裕はないんだ」


 背を屈む黒蔡ヘイツァイが妻を見上げ、促す。さほど押し圧す風でもなかったが「あいよ」と、口を尖らせながらも烏鴉ウヤは応じる。


「じゃあな、お嬢ちゃん。これだけは言っとくが、小龍シャオロンを連れ出したわけじゃあない。奴が勝手に結界を破って、転がり出たんだ。どうしても連れてけってね」


 と。それだけを言い、黒蔡ヘイツァイは背を向けた。何を付け足すでなく、妻も同じく。


「あの、待って! 一つだけ教えて。小龍シャオロンを置いて——はぐれたのはどこ?」

「十三階層への階段の手前だよ。あたしらは死の回廊って呼んでるがねえ」


 もうこちらを向くことなく、それでも黒蔡ヘイツァイはあっさりと答えた。

 理由は分かる。双龍兄弟は行方知れずで、偉浪ウェイランが戦えなくなった。


 仮に破浪ポーランが残っていても、十二階層の奥まで確実に行けるのは自分たちだけ。そういうことだ。


「お願いします……」

「お嬢ちゃん、どういうことだい?」


 迷う余地はない。どころか、何を考えるより前に身体が動いた。

 拝礼の両手を高く捧げ、直角に腰を折り、こうべを垂れる。これ以上はやりようのない最拝礼を、黒蔡ヘイツァイ夫婦に。


「私たちは双龍兄弟を捜しに来ました! そこに破浪ポーランも来るはずです。だから私を連れていってください!」


 声を出すのもつらい姿勢から、力の限り叫んだ。

 行って何をするとか、計算じみたことは何もない。胸の奥から込み上げた言葉が、発してみればそうだった。


「はあ、屍運びの真似ごとをしろって? そりゃあ、できなかないけどね。やるとしたら、地上へ戻ってそれからだ」

「それでは間に合いません。どうかこのまま」


 往復で二十日近くもは待てない。黒蔡ヘイツァイも承知での返答のはず。

 どうすれば、この意地の悪い年長者たちが聞き入れてくれるか。考えても、より声を大きくするしか浮かばない。


「お願いします!」


 ふうっ、とため息。だが黒蔡ヘイツァイがこちらを向いた気配も同時に。「なあ、お嬢ちゃん」と、優しげな声に希望の光を感じた。


「はいっ」

「ちょいと教えてほしいんだが。お嬢ちゃんの頼みを聞いて、あたしらに何の得があるって言うんだい?」


 くすくす。けたけた。春海チュンハイを嘲笑うように、笑い屋の声が聞こえ始めた。

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