第八幕:神の言葉

第56話:手の届かぬ場所

(一番にやりたいこと。私がどうしたいか)

 そういう呪いのように、同じ思考が巡る。何度も、何度も。

 一番。のはずが、その都度ごとに違った候補だったけれども。


(神宣の通り、使命を果たすこと)

 改めて思い描くと、やはり第一と思える。だが、今ではない。


(双龍兄弟を連れて帰ること)

 使命を除けば文句なくこれが最上位だ、と思う。連れ帰ると言うなら、他ならぬ偉浪ウェイランも。


 実現の方法はともかく、一番の希望に違いあるまい。念のため、そうよね? と自問する。

 問われた春海チュンハイも、静かに頷いた。


 ——違う。もう一人、俯瞰で見下ろす春海チュンハイが囁く。杭港ハンガンで出会った者たちを振り返ってみよと。


 どうしてもこれだけは、という時。彼らは紅潮し、または青褪め。唾を飛ばし、泣き喚き、激昂する。

 若しくは期待に笑っていた。落ち着き払い、ただ頷くことはない。


破浪ポーラン……」


 あの無骨で無神経な、優しい男に問えば教えてくれるだろうか。

 ずっと隣に居て、呼んでも答えのないことが不思議で堪らない。


 あの抑揚に薄い、それでいて曲がることのない、鋼のような声を聞きたかった。

 もしかするとこの下に居るのかも。座る膝の先を見つめ、物を透かす神通力がなかったか本気で考えた。


(帰ってきて。どうして一人で行ってしまうのよ)

 無茶ではあっても、一人で迷宮を歩ける彼が羨ましい。春海チュンハイに同じ力量があれば、すぐにでも捜しに行きたかった。


 延々と考えるうち、随分と時間が過ぎたはずだ。ふと気づくと偉浪ウェイランが、長い寝息を往復させていた。

 傷を塞いでも、瀕死に陥った体力までがすぐには戻らない。それには当たり前に食って寝ること。


 寝るほうは良いとして、食うのが問題だ。手持ちの食料が尽きれば、どうしようもない。

 破浪ポーランが居れば、魔物を食うことも考えられたのに。段々と、腹が立ってくる。


「ああ、もう。どうして居ないの」


 少し感じる空腹のせいかもしれない。おかげで腹の虫も騒ぎ始めた。

 宥める術もなく、天井を仰ぐ。


(今、どの頃合いかしら)

 この上の、さらに上の、遥か先に街がある。地図に記せば、ほぼ同じ場所だ。

 しかし決して届かない。手も、声も。そろそろ夕餉なのか、それとも目覚めの茶が近いのか分からない。


 反対に、こちらが何をしているかを町の人々は知らない。春海チュンハイの居ることさえ、だ。

 このまま果てたとして、誰も悲しむどころか、何らの影響を及ぼすこともない。たまさか訪れただけの、よそ者がゆえに。


(誰も福饅頭を持ってきてはくれないのね)

 ぞくっ。とした背の凍えを、空腹のせいとごまかした。

 銭はある。百でも二百でも好きなだけ求めて、目減りしたうちに入らぬくらいは。


「なんで売ってないんだろう……」


 馬鹿馬鹿しいほどに自明の問いを、声に出さずにおれなかった。屍運びの父子が胸に抱くもの。その片鱗に触れたように感じて。


(でも勝手に分かった気になるのは違うよね)

 棺桶にもたれ、恐怖に震える。宙へ浮かべるのは、腹立たしい美丈夫の顔。


「帰ろうよ」


 どうせ独りなら、叶わぬ願いも今のうちに吐き捨てるつもりで言った。

 しかし答えるように、何者かの動く気配が闇の奥へ見える。


 下りの階段へ向かう通路。戻ってきた、と胸に温かい息が満ちる。

 だがそれは、すぐに萎んだ。足音が一つでなく、ばらばらと乱れたものだった。


「まったく、どいつもこいつも」


 毒吐きつつ、黒い靄から抜け出たのは知った顔だ。背を丸めて歩く、中年の男。

 続いてその妻も姿を見せる。五歩遅れて、息子も。


黒蔡ヘイツァイ一家——これから戻るところ?)

 いつの時点かで見えなくなっていたが、彼らも十一階層へ下りていたのだろう。先に見たより、あちこちに汚れが目立つ。


 声をかけ、地上まで同行を願うべきだ。と思うが、どうも気後れがする。

 むしろ声の洩れぬよう、いつの間にか自身の口を押さえつけてもいた。


「やっぱり急にやり方を変えようったって、うまくいくわけないんだよ。ねえ、あんた」

「まあな、そういうこった」


 空虚の術内に在る春海チュンハイに、気づく様子はない。妻の烏鴉ウヤが、何にかひどく憤っているようだ。

 答える黒蔡ヘイツァイの着物は片袖を失い、手ひどい怪我を負って治したところ、という風だった。


「まあこれで双龍兄弟は居なくなるんだ。競争相手の減るのはいいことだよ」


 くっ、くっ、と笑う烏鴉ウヤ。どれだけ怒っても他人の不幸で感情を一転させられるとは、見下げたものだ。

 しかしだからと、聞き流せる言葉でもなかった。


「あの、すみません。双龍兄弟と会ったんですか」


 お神酒で描かれた結界を、踏み越えていた。半ば無意識だが、後悔することはない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る