第55話:優しい声

 見下ろした目が、真上の天井に逸れる。次の言葉の在り処を探すように、ゆっくりと動き続けた。


「お父様は人と話すのを避けてらっしゃるように思います。なぜかは分かりませんが誰にでも、それこそ人間嫌いというものかなと思いました」

「間違っちゃいねェ。お前の言う通り、誰と話すのも億劫だ」


 苦笑めいて皮肉げな偉浪ウェイランの鼻息。

 今の春海チュンハイの言葉を拾えば、貶すものだったのに。もっと言え、と求められたように思う。


 しかし本意ではないのだ、当然に「でも」と続ける。と偉浪ウェイランは、やれやれとばかりにまた視線を遠ざけた。


「話すと、お優しい声で。私などを気遣ってくださいます」

「優しい、ねェ。そんな言葉を吐く奴のほうが、よっぽどと思うが。知る限り、二人だけだ」


 二人とは。

 一人は春海チュンハイなのだろう。もう一人を推測しようにも、偉浪ウェイランの交友を知らない。


 脳裏に、破浪ポーランの顔が過る。だがすぐに振り払った。父を敬う気持ちは間違いなかろうが、どうも似合わぬ気がした。


「お前らと同じ歳の頃、あっちこっちの小競り合いに首を突っ込んだ」


 突然に何を言い出したか、脈絡が見えない。目も春海チュンハイとは反対を向いたきり。


 戦の話だけに、煙に巻こうとしている。とは考えにくい。

 もしもこの会話を打ち切りたいなら、ごまかすことなく「面倒くせェ」と言う。偉浪ウェイランとは、そういう男だ。


「小競り合い——戦ですか」

「んな上等のもんじゃねェ、ありゃァ詐欺ペテンってんだ」

「すみません。どうもよく分からなくて」


 向こうの壁に、古戦の記録でもあるのかもしれない。偉浪ウェイランはじっと、一点を見据えた。


「最初は北の部族だった。馬に乗ったまま、岩場も谷も自在に越えていく奴らだ。地面から生えてるもんは、神様からの恵みと言ってた。だから食っていいが、鳥なんかは食えないってな」


 神様と聞いて、にこやかで善良な人々を思い浮かべた。だがその教えは、春海チュンハイが両手を合わせてきたものと違う。


 ジンの外にはジンの民でない人が住んでいる。知ってはいるが、そういうことかと初めて理解した心地がした。


「お前には得体の知れねェ奴らだ、皇帝も同じだろうさ。神殿を焼き払え、働き手は皇都へ連れてこい。そういう命令だ」

「それは。たしかにジンとは違う神様というものに違和感があります。でも、だからって」


 無理やりに働き手として拐う。それはつまり、奴隷ということになろう。

 春海チュンハイの知る奴隷とは死刑よりも少しましな刑罰を言い渡された、罪人のことだが。


「良くないことをしてはいけません、か? お前が皇帝なら平和でいい。でも現実ってのは、そうじゃねェんだよ」


 講談師のように、煽り立てて語るでない。料理の材料を読み上げるのにも、もっと感動があっていい。そう思うほど淡々と、低い声が流れて消える。


「でも……でもそれでは、礼尊の教えに反します」


 年長者を敬い、国や民のために戦う者を尊び、そうでない者にも礼を以て対せよ。

 長幼、軍敬、礼尊の考え方は、ジンの根幹とされている。異なる土地の異なる神を奉るから、という例外はない。


「だから神宣ってのがあるんだろォが」


 当然のごとく言われても、分からない。

 僧正の娘として、僧のはしくれとして、失敬と憤るべきだ。


 だのに、できない。問い直すことさえ。

 年長であり、破浪ポーランの父というのを除いても、馬鹿なことをと撥ねつけられぬ何かを感じた。


「あっちの奴らは国に害がある。こっちの奴らは、住んでる土地が腐ってる。だから行って、清めてやれ。神様にそう言わせちまえば、礼も尊もありゃしねェ」


 思いもよらないことだ。

 神様も誤ることはある、と言うならまだいい。それは聞き取った人間のほうが、受け取り損ねたのだろうから。


 偉浪ウェイランの言うのは、そうでない。聞き取る人間が意図して誤りを、いや聞き取ってさえいないと。


「皇都の僧正は嘘吐きで、神宣は芝居と仰いますか」

「何もかもとは言わねェ。俺が加わった時はそうだったってだけでな」


 二、三十年も前となると、僧正は義海イーハイでなかった。先代の、春海チュンハイとは血縁のない老人だ。


 問い質すことは叶わない。十数年も前に亡くなっている。

 懐かしい顔を思い出し、考えたことにかぶりを振って否定した。


「人間がほしい。塩がほしい。鉄がほしい。思いつくたびに神宣が出た。すると募兵の札が立つ。関わる間、飯に困らねェんだ、貧乏人は喜んで行く」

「お父様も、というお話でしょうか」

「あァ、二十歳を過ぎるくらいまではな」


 神宣があれば必ず戦になるとは限らない。

 父、義海イーハイは自身の受けた神宣のその後を気にした。

 春海チュンハイに話すこともあった。多くは物憂げに。

 争いか否かを問わず、丸く収まれば喜んでいたと記憶している。


「まァ兵ったって武器も防具も整っちゃねェ、人数も僅かなもんだ。説得って名目で行くんだがな」

「そ、そうですよね。おかしな話だと思いました」


 降って湧いた答え・・に縋りつく。神宣によって派遣されるのが、ただの略奪者のはずがない。

 しかし偉浪ウェイランの失笑が、続く言葉を忘れさせた。


「明日からこの土地は、皇帝の役人がいいように使ってやる。お前たちは皇都で死ぬまで働け。と言われて、お前は喜ぶのか?」

「……それはひどいと思います」

「あァそうだ、だから説得の部隊は全滅する。その次は晴れて、皇帝の正規軍様のお出ましだ」


 よく考えられている。そんな悪虐が罷り通るものか、と感じるのを除けば破綻がない。

 偉浪ウェイランの創作ならば、大したものと言えた。


「全滅するのなら、お父様がここに居てはおかしなことになります」

「死ぬのと逃げるのと、半々でも全滅に違ェねェだろ」


 悪足掻きもあっさりと受け流された。目まいのしそうな頭を支えるのがつらくなり、かくんと首を折った。


(そんなこと——あったのね、きっと)

 認めたくなかった。神宣は神の意志で、常に正しいと信じていたかった。


 そうでないなら、破浪ポーランが死なずとも良いのかもしれない。だとすれば嬉しいと思うのに、どんな感情を持てばいいのやら。


「何を落ち込んでやがる」

「申しわけありません。でも私、どうしていいのか」


 偉浪ウェイランの声がこちらを向いた。それでも視線の合わないのが不満らしく、棺桶の中でごとごとともがくのが賑やかしい。


「どうであれ、無事に戻れれば皇都へ帰る気でした。そうすれば父上に問うことはできます。ただそれでは、今どうするかを決められません」


 先代と父とで、神宣の意味は異なるのか。もしも同じであれば、非道の先鋒となった春海チュンハイはどうすれば良いか。

 考慮せねばならぬことが、あまりに多すぎる。途方に暮れた背に、不満げな息が盛大に降りかかった。


「やっぱりお前は、馬鹿らしィや」


 否定はできない。小さく頷くと、肩に手が触れた。


「あのなァ、お前の神宣が嘘と言ってんじゃねェんだ。お前が信じきってりゃァ、俺の口出しすることでもねェ」

「えぇ……?」


 たった今まで言ったことと、違うでないか。わけが分からず、顔を上げた。

 破浪ポーランとはさほど似ていない、精悍な顔つき。けれどもまっすぐに射抜くような瞳はよく似ている。


「分からねェか。真実だの事実だのは、作る奴の好き勝手なのさ。だからって土地を奪われた奴らに何を言われたとして、俺の知ったこっちゃねェ」


 肩をつかむ手が、少し痛かった。むしろ偉浪ウェイランの気持ちが染み入るようで、心地良くもあるけれど。


「ただ、俺が直に死なせた奴。その家族なんてのがもの申すって言やァ、何か答えなきゃならねェ」

「もし、仇討ちと言われたら……」


 破浪ポーランならば、「きみの言い分はもっともだけど」と言いながら断るだろう。

 偉浪ウェイランも従うまい。どんな言いわけをするか、思いもよらないが。


「悪ィ、ってくらいか。それで済まなきゃ、殺し合いだ」

「受け入れはしないんですね。そうだろうと思いましたけど」

「当たり前だ。そんなのでいちいち死んでりゃ、俺の命は千も万も要るじゃねェか」


 笑われた。鼻息だけで、口角が上がりもしなかったが。


「結局言いてェのは、お前は頭も悪ィくせに欲ばりすぎなんだよ。自分が一番にやりてェことは何か、決まってりゃァそうはならねェ」


(ああ……)

 すとん、と何かが肚に落ちる。ずっともどかしく、見えている棘に触れられないような心持ちが消え失せた。


「もし仇討ちにやってきた人の言い分が、納得いくようなら。自ら命を差し出すことさえ?」

「あるだろうさ。何を言われりゃそうなるか、分かんねェが」


 意図せず。うん、うん、と何度も頷いていた。大念珠をぎゅっと握り締め、偉浪ウェイランの言葉を胸に繰り返す。

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