第55話:優しい声
見下ろした目が、真上の天井に逸れる。次の言葉の在り処を探すように、ゆっくりと動き続けた。
「お父様は人と話すのを避けてらっしゃるように思います。なぜかは分かりませんが誰にでも、それこそ人間嫌いというものかなと思いました」
「間違っちゃいねェ。お前の言う通り、誰と話すのも億劫だ」
苦笑めいて皮肉げな
今の
しかし本意ではないのだ、当然に「でも」と続ける。と
「話すと、お優しい声で。私などを気遣ってくださいます」
「優しい、ねェ。そんな言葉を吐く奴のほうが、よっぽどと思うが。知る限り、二人だけだ」
二人とは。
一人は
脳裏に、
「お前らと同じ歳の頃、あっちこっちの小競り合いに首を突っ込んだ」
突然に何を言い出したか、脈絡が見えない。目も
戦の話だけに、煙に巻こうとしている。とは考えにくい。
もしもこの会話を打ち切りたいなら、ごまかすことなく「面倒くせェ」と言う。
「小競り合い——戦ですか」
「んな上等のもんじゃねェ、ありゃァ
「すみません。どうもよく分からなくて」
向こうの壁に、古戦の記録でもあるのかもしれない。
「最初は北の部族だった。馬に乗ったまま、岩場も谷も自在に越えていく奴らだ。地面から生えてるもんは、神様からの恵みと言ってた。だから食っていいが、鳥なんかは食えないってな」
神様と聞いて、にこやかで善良な人々を思い浮かべた。だがその教えは、
「お前には得体の知れねェ奴らだ、皇帝も同じだろうさ。神殿を焼き払え、働き手は皇都へ連れてこい。そういう命令だ」
「それは。たしかに
無理やりに働き手として拐う。それはつまり、奴隷ということになろう。
「良くないことをしてはいけません、か? お前が皇帝なら平和でいい。でも現実ってのは、そうじゃねェんだよ」
講談師のように、煽り立てて語るでない。料理の材料を読み上げるのにも、もっと感動があっていい。そう思うほど淡々と、低い声が流れて消える。
「でも……でもそれでは、礼尊の教えに反します」
年長者を敬い、国や民のために戦う者を尊び、そうでない者にも礼を以て対せよ。
長幼、軍敬、礼尊の考え方は、
「だから神宣ってのがあるんだろォが」
当然のごとく言われても、分からない。
僧正の娘として、僧のはしくれとして、失敬と憤るべきだ。
だのに、できない。問い直すことさえ。
年長であり、
「あっちの奴らは国に害がある。こっちの奴らは、住んでる土地が腐ってる。だから行って、清めてやれ。神様にそう言わせちまえば、礼も尊もありゃしねェ」
思いもよらないことだ。
神様も誤ることはある、と言うならまだいい。それは聞き取った人間のほうが、受け取り損ねたのだろうから。
「皇都の僧正は嘘吐きで、神宣は芝居と仰いますか」
「何もかもとは言わねェ。俺が加わった時はそうだったってだけでな」
二、三十年も前となると、僧正は
問い質すことは叶わない。十数年も前に亡くなっている。
懐かしい顔を思い出し、考えたことに
「人間がほしい。塩がほしい。鉄がほしい。思いつくたびに神宣が出た。すると募兵の札が立つ。関わる間、飯に困らねェんだ、貧乏人は喜んで行く」
「お父様も、というお話でしょうか」
「あァ、二十歳を過ぎるくらいまではな」
神宣があれば必ず戦になるとは限らない。
父、
争いか否かを問わず、丸く収まれば喜んでいたと記憶している。
「まァ兵ったって武器も防具も整っちゃねェ、人数も僅かなもんだ。説得って名目で行くんだがな」
「そ、そうですよね。おかしな話だと思いました」
降って湧いた
しかし
「明日からこの土地は、皇帝の役人がいいように使ってやる。お前たちは皇都で死ぬまで働け。と言われて、お前は喜ぶのか?」
「……それはひどいと思います」
「あァそうだ、だから説得の部隊は全滅する。その次は晴れて、皇帝の正規軍様のお出ましだ」
よく考えられている。そんな悪虐が罷り通るものか、と感じるのを除けば破綻がない。
「全滅するのなら、お父様がここに居てはおかしなことになります」
「死ぬのと逃げるのと、半々でも全滅に違ェねェだろ」
悪足掻きもあっさりと受け流された。目まいのしそうな頭を支えるのがつらくなり、かくんと首を折った。
(そんなこと——あったのね、きっと)
認めたくなかった。神宣は神の意志で、常に正しいと信じていたかった。
そうでないなら、
「何を落ち込んでやがる」
「申しわけありません。でも私、どうしていいのか」
「どうであれ、無事に戻れれば皇都へ帰る気でした。そうすれば父上に問うことはできます。ただそれでは、今どうするかを決められません」
先代と父とで、神宣の意味は異なるのか。もしも同じであれば、非道の先鋒となった
考慮せねばならぬことが、あまりに多すぎる。途方に暮れた背に、不満げな息が盛大に降りかかった。
「やっぱりお前は、馬鹿らしィや」
否定はできない。小さく頷くと、肩に手が触れた。
「あのなァ、お前の神宣が嘘と言ってんじゃねェんだ。お前が信じきってりゃァ、俺の口出しすることでもねェ」
「えぇ……?」
たった今まで言ったことと、違うでないか。わけが分からず、顔を上げた。
「分からねェか。真実だの事実だのは、作る奴の好き勝手なのさ。だからって土地を奪われた奴らに何を言われたとして、俺の知ったこっちゃねェ」
肩をつかむ手が、少し痛かった。むしろ
「ただ、俺が直に死なせた奴。その家族なんてのがもの申すって言やァ、何か答えなきゃならねェ」
「もし、仇討ちと言われたら……」
「悪ィ、ってくらいか。それで済まなきゃ、殺し合いだ」
「受け入れはしないんですね。そうだろうと思いましたけど」
「当たり前だ。そんなのでいちいち死んでりゃ、俺の命は千も万も要るじゃねェか」
笑われた。鼻息だけで、口角が上がりもしなかったが。
「結局言いてェのは、お前は頭も悪ィくせに欲ばりすぎなんだよ。自分が一番にやりてェことは何か、決まってりゃァそうはならねェ」
(ああ……)
すとん、と何かが肚に落ちる。ずっともどかしく、見えている棘に触れられないような心持ちが消え失せた。
「もし仇討ちにやってきた人の言い分が、納得いくようなら。自ら命を差し出すことさえ?」
「あるだろうさ。何を言われりゃそうなるか、分かんねェが」
意図せず。うん、うん、と何度も頷いていた。大念珠をぎゅっと握り締め、
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