第53話:対話

「誰か来るなら、あなたも待てばいいじゃない——」


 破浪ポーランの消えた闇を、ぼんやりと眺めた。

 春海チュンハイだけでは迷宮を歩けない。今さら追いかけても、探せない。


(もう会うことはないのね)

 異なる今を選ぶことはできたはずだ。どこが分かれ目で、どんな今なら不満でなかったか。それは分からないけれども。

 力の抜けた膝が、勝手に折れる。ぺたんと尻が地面に着いた。


「終わった……」


 胸に満ちたもやもやを、強く噴いた。残らず棄てたはずなのに、取り込んだ新しい風がもう粘つく。

 繰り返すのは面倒で、全身を放り出す。硬い地面に寝転び、落ち込んでいながらも頭を打たぬようにする自分の狡さに気づく。


(殺してやりたい)

 きっとこう思うのも、本気でないのだ。何を考えるのも厭になった。


 迷宮の魔物に挑んで死ぬるのも自死のうち。父、義海イーハイは保証した。

 ならば今日、明日でないにしても、使命を達成したことになる。


 晴れて皇都に帰り、以前のように暮らせるのだ。神宣を果たしたことで、一人前の僧への道もきっと近づいた。

 喜ばしいことばかりだ。


「本当に、滅びるんだったの?」


 彼自身の未来を。親しい人から彼を。

 奪った。


 ジンという、多くの人の住む世界を救えるなら、比べるべくもない。

 そう思っていた。いや、今もそう思う。

 だが、本当に? と。自問し始めると、止まらなくなった。

 たった二人の父子を引き離すだけの意味があったのか。


「あ」


 すっかりと、意識から偉浪ウェイランが抜け落ちていた。

 這いずるように棺桶まで移動し、覗く。素より痩せた顔の男が、より細く見えた。

 顔色も悪い。闇に侵食されるように、どす黒く変わりつつあった。


 すぐには死なない。神通力を以てして、どうにもならぬという境界までは半日というところだろう。

 けれど、祝符を取り出した。もう見たくなかった。


大癒ダァユ


 血の色に似た、濃い朱の光。収まると、止血の布が緩む。するすると抜き取り、脇へ放り投げた。

 意識を失っていたらしい。細かった偉浪ウェイランの息は、穏やかな寝息に変わった。


 これで大丈夫だ。この場で誰かの死を見ることはない。

 ふっと吐いた安堵は、己のため。という事実に気づかぬふりで、罅割れた唇に水袋を当てがってやった。


 噎せることのないのを見届け、棺桶の縁に上体を預ける。

(疲れた……)

 少しだけ目を閉じていよう。そう考えるのさえ途中で、春海チュンハイは眠りに落ちた。


 ――次に目覚めると、全身に気怠さが著しい。薄く開けた目で窺っても、偉浪ウェイランの息は静かなままだった。魔物の姿もない。


 上半身を伸ばすと、あちこちの筋がごりごりと派手な音を立てる。

 誰も見ていない、構うものか。込み上げたあくびも、噛み殺さなかった。


「女」


 ふ、と口を閉じると同時、呼ばれた。どこともなく泳がせた視線を、さっと動かす。

 見られただけで焼き焦がされそうな、偉浪ウェイランの眼はない。あるのは、落ち窪んだ病人のそれ。


 咄嗟に発しようとした言葉はあったはずだが、あうあうと動かした唇の端から霧散した。


「あの馬鹿はどうした」

「双龍兄弟を捜しに」


 舌打ちが弱々しい。無理もないと理屈で思うのと、この男に持つ印象からの意外さとに戸惑う。


 ぶつぶつと何やら考える様子で、邪魔をせぬように待った。春海チュンハイから言えることなど何もないと、竦んでいたとも言えたが。


「誰か他の探索者は来たか」

「いえ。あ、いえ。私も眠ってしまっていて」


 否定を否定し、自身の痴態を告白した。顔から火が噴くとはこのことと、久しく体感する。


 しかし偉浪ウェイランに、咎める素振りはなかった。

 話し、思考を動かすことで、身体も目覚めたように色を良くしていった。


「誰か来たら、連れて帰ってもらえと」

「ハッ、そんな真似ができるか。いやお前は戻っていいが、俺はな」


 鼻で笑う素振りをしながら、声は完全に怒っている。

 春海チュンハイは要らないと即座に言いきり、その通りもはや自身しか居ないように忙しく思考に没頭した。


「あの、お父様」


 しばらく眺めていても、偉浪ウェイランの戻ってくる気配は遠かった。

 そのまま居るのがどうも悪趣味に感じ、おそるおそる呼んでみる。


「あァ?」

「いえ、あの……私、皇都から来ました」


 こんな時に自分の身の上からか。捻り出した言葉の稚拙さに呆れた。


「あァ、俺もだ。お前の生まれる前から、戻っちゃいねェが」


(答えてくださった?)

 意外さに、目と耳を疑う。察したらしく、また気に入らぬ風に「あァ?」と。

 何を言おう。考えごとの妨害を謝り、黙っているべきか。思考を急かしたが、やはりまとまらない。


「申しわけありません」

「何に謝る」

「色々です」


 一つずつ上げれば、きりがない。不実かもしれないが、まず言えることが他になかった。


「何だ、お前もあれか。町の奴らと同じに、俺を自分勝手な悪の権化とでも言うつもりか」

「えっ、いえそんな!」


 誰がそんな悪口雑言を言うのだ。町の人々が屍運びを気味悪がるのも、良くはない。だが偉浪ウェイランの言うようなことはあるまいに。


「ハッ。まあ九割方はその通りだがな」

「そんなことはありません。お父様は目的への最短を貫かれるので、どう話していいか迷う部分はありますが」


 あァ? と聞こえた気がした。けれどもこれは空耳で、太い眉がひくっと吊り上がっただけだ。


 こうする間にも、偉浪ウェイランは何ごとかを考えている。春海チュンハイにだけ向くのでない視線や、思考をなぞるように動く指先が知らせた。


「押しかけ女房だか孕まされた復讐だか、知らねェが好きにしろ。あの馬鹿がおっ死んじまえば無理だが、俺に気ィ遣うこたァねェ」

「はら——!」


 今度こそ火を噴いた。両手での消火に、しばしの時間をかける。

 そうではない。やはり偉浪ウェイランには伝えておかねば、と誓いながら。


「私、破浪ポーランを死なすために来ました」

「へェ」


 息を整え、まずはお題目を。言った途端、背すじが凍る。

 笑った。偉浪ウェイランの口角がすうっと、片方だけ持ち上がって。

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