第52話:使命を胸に

 誰かが笑う。

 くすくす。けたけた。

 見回し、人も魔物も姿のないことをたしかめ、それでも落ち着かずに祝符を取り出した。


 春海チュンハイの手もとに、空虚の祝符は一枚だけだ。今これを使っていいものか、判断に迷う。


(あっ、笑い屋)

 遠慮のない笑声の正体を思い出す。迷宮を進む人間が、何か失敗をする直前に笑う失敬な存在を。


 ならば迷う余地はない。

 春海チュンハイや父子は動いていないのだ、ならば失敗の原因が近づいていることになる。


「じゃあ」


 ただ、お神酒を持つのは破浪ポーランだけだ。貸してくれるよう頼もうとして、先に彼が声を発した。

 目を瞑ったまま、いかにも平静を装って。


「俺はどうすればいい? たった今から、この先をさ」

「あァ? 戻る以外にねェだろ。お前一人で、他に何かできるつもりか大馬鹿野郎」


 地上へ戻れ、と言うだけでいいものを。偉浪ウェイランは威圧めいた言葉を余計に吐き出す。

 息を継ぐたび、止血の布の水気が増す。僧として、すぐに塞がぬことを罪と思う。


「双龍兄弟を見捨てて、父さんだけを連れて逃げ帰れって言うんだね」

「同じことを言わせんじゃねェ。ガキが一人で何ができるって言ってんだ」


 もっともだ、という風に破浪ポーランは頷く。それからゆっくりと目を開き、啜るようにしか息のできぬ父を見下ろした。


「おかしいよ父さん。いつも言ってるじゃないか、『帰りたいとか帰したいとか、そういう望みを叶えさせてやる』って。俺が父さんの言う通りにするのは、俺も同じ気持ちだったからだよ」


 腰の竹筒を取り、彼はお神酒を撒く。父を中心に、ぐるりと円を。


「うるせェ、気に入らねェなら俺を置いて帰れ。その代わり、二度と姿を見せるんじゃねェ」


 何度も声を引きつらせながら、偉浪ウェイランは吐き捨てる。

 まだまだ力強く見えたが、そんなはずはない。意図して強がっているだけと察し、春海チュンハイは棺桶の傍へ。


 すかさず、射殺さんばかりの視線に貫かれ、身を竦ませた。が、歴戦の男は何を言うでもなく目を閉じる。


春海チュンハイ、頼みがある」


(どうしよう。傷を塞ぐ他に、命を繋ぐ方法は——って私を呼んだ?)

 親子の対話を邪魔しない。そう思うところに、意外な破浪ポーランの呼びかけ。首を痛めそうなほど慌てて、顔を向ける。


「父さんの足、言う通りにしてやってほしい。俺は見たくないから、居なくなった後で」

「居なく、って。どこへ?」

「双龍兄弟を捜しにだよ」


 一枚の祝符を彼は取り出して見せた。それはもちろん、空虚の。


「ああ、これも要らないか。飲んでいいならだけど」


 お神酒入りの竹筒を、投げて寄越す。受け止めはしたが、彼はどうするのか。


「駄目よ。お神酒これがないと、休むことだってできないわ。ううん、その前に一人でなんて。私も——!」

「いや、空虚はこれで終わりなんだ」


 春海チュンハイを連れていけ、という願いに答えはなかった。

 ぎこちない失笑で、彼の祝符を持つ手が目の前に運ばれた。


「待って破浪ポーラン!」


 駆け寄り、奪い取ろうとした。だがさすが迷宮でも最下層へ潜る男の一人。たやすく躱し、春海チュンハイがいかに飛び跳ねても届かぬ宙へ掲げられる。


「一人じゃ、どうにもならない。たしかにそうだよ、つまり俺はきみの願いを叶えに行くのさ」


 私の使命はね、あなたに死んでもらうこと。

 初めて破浪ポーランと出逢い、ほんの僅かな言葉を交した後。間違いなく春海チュンハイは言った。


 死ね。自ら命を絶ち、ジンのためになれ。

 そう言った。

 だが。


「ううん、待って。私ね、そうよ。それが私の果たすべき使命で、でもね。あの、何て言えばいいか」

「うん、ありがとう。父さんを頼むよ」


 肝心な言葉が見つからなかった。

 フッ、と。噴き出した破浪ポーランの息が、額に張りついた髪を撥ねる。


「十階層なら、待っていれば必ず誰か来る。きみは地上に帰るんだ」


 一歩。破浪ポーランが後退る。


「空虚」


 間髪入れず、祝符に封じられた術が起きた。ふわと風が密度を増し、外向きに流れ出る感覚。


 押されたように、破浪ポーランはまた何歩かを下がる。小さく手を上げ、彼の目が春海チュンハイを探した。

 二度、手を振る視線はまっすぐにこちらを向く。


「じゃあ」


 くっきりと輪郭も顕わな声。うらはらに、彼の表情は失われた。

 いつもの破浪ポーランだ。恐れ、戸惑い、そんなものを微塵も感じさすことなく、背を向けて歩き去る。

 十一階層への階段へ向けて。


「違うのよ、私……」


 ふるふると笑った膝が地面に突く。込み上げた熱い息を切れ切れに吐き、かぶりを振るしかできなかった。

 こんな時、何を言えばいいか。僧院で教わらなかった。

 笑い屋の声が、ずっとやまない。

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