第七幕:使命果たす時
第51話:冷たい決断
迷宮の奥底に、果てなき空間がある。地面と天井に遮られはしても、
彼方に向け、青白い顔の女は悠々と歩いた。どれだけ進もうと、どこへも辿り着かないだろうに。
振り返れば、迷宮の名に相応しい入り組んだ通路がある。こちらはそもそも、二十歩ほどしか視界が通じない。
進む後ろへ、壁が現れる。
現実を覆い隠していた布が、千の手に引かれて外れた――いや現実という生地が破れ、その裏にあるものを垣間見せていたのかも。
ふと、
誰に問えば答えがあるか、現実の向こうにあるのは何か。皆目見当もつかなかったが。
青白い顔の、人とも人形ともつかぬ女が笑う。口角だけをぐっと上げて、現実の幕に隠れて消えた。
「まずい、屍鬼だらけだ。逃げよう」
はっと気がつけば、斑に黒い胸板が目の前へあった。見上げる、と彼は冷たい視線で見下ろしていた。
背すじが凍る。何かしでかしたか、見回しても何もない。
(そうか私、何もしなかったんだ)
義足でないほう、右足を刎ねられた
「いや、あれが怖かったんだろ? 仕方ないよ」
千の手の去った、左の通路の先が顎で示される。
そうではない。が、どう答えるかも思いつかず、うやむやに頷いた。
「それより屍鬼が。逃げよう」
複数に分かれた通路のどこにも、人の形をした物が見える。衣服はあったりなかったり、五体満足なのは稀で、ごっそりと肉を削ぎ落としたのも多い。
いずれもこちらへ腕を突き出し、つかみかかる構えだ。ふらふらと危うい歩みで、進みも鈍いのが救いだった。
「うん。ごめんなさい」
何に謝っているか、心当たりが多すぎて
しかし
いつもの特殊な歩法でなく、さっさっと半ば駆ける早足で。
来る時が嘘のように、帰る道は多くの屍鬼と出遭った。追ってくる、通路を埋める数よりはましだが。
分厚く布を巻いた踵が、正面の屍鬼の顎を砕く。勢いに俯いた頭を蹴り上げ、仰け反った胸に手斧を叩き込む。
返す刃が、横から伸びる枯れた腕を砕いた。皮一枚でぶら下がり、それでも屍鬼には怯むということがない。
不揃いの歯を剥き、噛み付こうとする口へ肘を突き入れる。見たことのない、荒々しい戦いぶりで
十階層の
「
幾つかの罠にかかり、毒の霧を受けながら、勢いそのまま。辿り着き、祝符の表が読み上げられる。
「またか……」
ぐらり。
そうもなろう。術で見えなくしたはずの
ただし、それはそれ。祝符を用いて解毒の術を施す。次は細かな傷を癒そうと、合掌の両手で大念珠を取る。
「
だが彼は動かない。片膝を抱え、俯いたまま。
うまく術は働いたはずだが、まだ足らないということもある。それは当人の具合いを問うてみねば知れず、憚られた。
一度くらい、過剰に術をかけても問題はない。黙ってもう一度
そう決めた時、
「ありがとう
先ほどより声の柔らかくなった気がした。鉄と銅なら後者のほうが、という程度。
蓋を開けた棺桶を覗けば、そんなことはどうでも良い話だが。
ここまで集めた宝袋の中身を枕に、
苦痛に顔が歪み、食いしばる歯の間からようやく息が漏れた。
常人ならば、これでは済まない。痛い痛いと騒ぎ、当たるを幸いに爪を立て、どうにかしろと周囲を呪う。
大の男でもそうなって当然なのに、苦しむことを忌避するように。泣き言を漏らしては罪であるかに、歴戦の男は堪えていた。
「傷は塞げる——」
頷いた。が、首肯と捉えられては困る。「けど」と合間なく言葉を継いだ。
「傷を閉じてしまったら、足を取り戻しても元に戻らないかもしれない」
繋ぐ足があれば、ほぼ元通りに治せるはずだ。
「そうなのか……」
「うん、父上もそれは無理って」
足先のないまま
「じゃあこのままで、足を取り戻せばいいんだね」
「ええ。お父様の体力が持てばだけど」
棺桶の中に、血溜まりができていた。とっくりに三本分もあるだろうか、大丈夫とは既に言えない。
「女」
素早い息継ぎに乗せた、尻切れの声。たったそれだけで、ただでさえ荒い
「構わねェ……塞げ」
「そんな父さん。苦しいと思うけど、少しだけ待ってよ。必ず取り返してくるから」
どちらの意見が正解と、
もう少し、なら体力は持つだろう。しかしあの化け物を思うと、待たせるのは拷問でしかないとも言える。
「うるせェ、俺のことは俺が決める」
「それはそうだけど。両足を義足になんて、もう迷宮に潜れなくなるんだよ」
長年を連れ添った父子の決断に、自分ごときが何を言えよう。
(これを卑怯と言うのかもしれないけど)
今にも殴り合わん形相を突き合わせ、言葉の剣を交わすような二人に慄きながらも。
「いいかクソガキ、お前のお守りに飽きたって言ってんだよ。いつまでもこんな、辛気臭ェ迷宮に拘うのもな」
「……本気で?」
「たりめェだ」
一転の沈黙。
棺桶の中。
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