第50話:迷宮あらわる(後)
「ま、魔物がまた!」
誰かの叫ぶ前に、今度は
最初の二十体ほどは、およそ数えられた。だがその後ろへ、数倍がまだ続く。
衣服も武器も持たない、素っ裸の人間。しかし腕、肘先、あるいは片脚、欠けている者が多い。
どころか、付いた肉さえ足らず、骸骨そのもののようなのも交ざった。
わっ、と。住人たちは蜘蛛の子を散らす。
「どうにもならねェな」
脇へ残る生地商人に苦笑を投げ、
「着いていっても?」
「構わねェ」
図体の割りに、生地商人は軽々と足を運ぶ。持ち物は背中へ斜めがけにした風呂敷だけだ、そのせいもあろうが。
岩壁までは、かなりの距離があった。万を目指していた町の、半分だ。
ゆえに
どこかで荷車でも拝借できないか、駆けながら視線を走らす。
しかし、今度の魔物は疾かった。
彼らも走った。
生地商人と同じく、
噂に聞く屍鬼と判じたが、こうも潑溂と動き回るものとは知らない。
「おいおい、お前の予言はタチが悪ィな」
「それはどうも」
生地商人はにやともせず、前と後ろ、それから
彼女が存分に走ったとして、やはり逃げきるのは難しい。三人、前後して歩く中、彼女の足が止まる。
「ご主人様。私は結構です、どうかお逃げください」
鞭打つように、引く手が剥がされた。
かっ、と頭に血が昇る。これほど腹の立つのは、いつ以来か。
ただし相手は身重の女。怒りを押し潰し、細く低く吐き出す。
「おい
聞き逃すことのないよう、直前まで顔を近づけた。おそらく唇も接したが、それどころでない。
「俺の惚れた女を雑に扱うんじゃねェ。いくらお前でも許さねェからな」
憂いを帯びた蒼い瞳。いつも薄く笑み、見ようによっては寝ぼけた風でもある。
きっ、と。それが強く力に満ちた。
「肝に——命じました」
「よし」
怒りを払うには十分だった。
どこかまた安息の場所へ逃げ延び、からかってやらねばならない。
「行こう。まずそうなのが来た」
ぼそ、と生地商人。言われるまでもなく、のんびりと話すだけに没頭してはいない。散らばった屍鬼の後ろに、背の高い別の魔物を認めた。
細かな姿は分からないが、やはり人間と作りは同じ。ただ、頭がなかった。
「どこかに隠れて、少しずつ潰すしかねェな」
「お得意の」
「あァ?」
生地商人の言った意味を問い質す猶予はない。できるだけ頑丈そうな建物を選び、奥の部屋へ
「ここから出るんじゃねェ。絶対に、何があってもだ」
「ご主——
「お前が背中に居りゃァ、千人でも万人でも相手にしてやらァ」
彼女の手が胸に触れた。少し力を加えれば、簡単に折れてしまう細い腕だ。
それは首も腰も、身体のあらゆる部分が。子を宿していても、その印象は変わらない。
綿をも潰さぬ力加減で引き寄せる。
腕の中に収めても、まだ足らない。薄く色づいた
一つ手前の部屋に、生地商人を置き物とした。図体はあるのだ、居らぬよりはましのはずだ。
粗い格子戸から、外を窺う。屍鬼どもが通り過ぎるなら構わず、建物へ入ってくれば倒す算段とした。
「……来ねェな」
どれだけ経ったか。煙管の十本も吸い尽くす間はあったろう。
魔物どもが全くよそへ去ったわけでもない。あらゆる方向から、争う音や断末魔が聞こえた。
抜き放った長剣が震える。力みきった手を放し、鬱血を解いてやるのも何度目か。
「早く来やがれ、でなきゃこっちから行っちまうぞ」
できぬことをなおさら呟き、己を貶めた。
用心棒が聞いて呆れる。受け取った銭に見合わぬ仕事など、今までなかったのに。もう自慢できなくなった。
「まあまあ。あんたはもっと用心深いはずだ」
ぼそり。
誰にも届くはずのない独り言に返答があった。それは一つ後ろの、大男から。
「驚くことはないよ。一流の船乗りってのは、耳がいいと決まってる」
「船乗りだァ?」
彼女には、話していることも察せまい。
たしかに船の変調を知るには音が重要と聞いたことはある。だが
いや――。
顔を知らぬ者が一人だけ居た。船乗りと呼ぶには、いささか抵抗はあったが。
「まさか、てめェの仕業か」
「この魔物の群れを? それこそまさか。海賊にそんな芸当はないね」
「じゃァ何だ」
髭のなくなった大男は、まあまあの美丈夫と言えなくもない。
すましているのか、それが素なのか。石膏で拵えたように動じぬ真顔に腹が立つ。
「何って、守りたいのさ。あんたの
手に、使い込まれた手斧がある。生地商人には不要の代物だ。
なぜ今。と考えても、合理的な推測が立たない。そして考え続ける時間もなくなった。
「来たよ」
やはりお前が呼び寄せているだろう。
そう思うほど、寄り集まる屍鬼が見えた。格子の目から、石垣の内へ入ったのだけを数えても三十以上。
なぜここにだけ。その理由は、極めて単純と気づく。
大男との密談が成立したのは、周囲が静かになったからだ。屍鬼どもは辺りを残らず殺し尽くし、ようやくこちらを発見したのだろう。
「居留守は無駄ってわけだ」
舌打ちと共に、格子戸を開け放した。駆け出た外縁を跳ね、庭へ下りる。屋内では長剣が使えず、大勢を相手ならこれが最善だった。
さすが屍鬼の反応は早い。腕を振り上げ、ない者は顎を開き、一斉に飛びかかる。
号令も雄叫びもないのが、彼らの素性を思い知らせた。
「ぬうっ!」
当たり前の男の腕を、二本分。特別に誂えた長剣を無造作に振り回す。
ぐるりと前を。勢いままに刃を返し、後ろを。狙いすまさずとも、繰り返していれば勝手に間合いに入った。
だが、それでは駄目らしい。首を切り離しても、その下が構わず突き進む。頭も頭で、跳ねて噛み付こうとする。
両脚を切り離したとて、結果は似たようなもの。
二十や三十を切り倒しても、血糊が付かない。おかげで刃の鈍らぬのは良いが、数も減らない。
大きく、当たるを幸いに剣を振り回した。間合いに在る屍鬼を撥ね飛ばし、息吐く暇を作る。
「ふう、ふう……困らせてくれるじゃねェか」
けれども知らぬものは、考えても答えが出ない。
「くそ、てめェら。前は人間だったんなら、切られたら死にやがれ!」
人間ならば。首を刎ねてしまえば、必ず死ぬ。しかしそれは、既に試した。
残るは胸の真ん中、心の臓も同じ。
なかなかの体格をした男の屍鬼が手を伸ばした。急所を隠そうなどと素振りはない。
躱し、長剣を袈裟に叩き込む。目分量だが、心の臓を割ったはず。
と。
前のめりにつかみかかる勢いが消えた。振り下ろした剣の勢いに負け、地面に叩きつけられた。
そのまま動かない。次の屍鬼も、その隣も。心の臓を壊せば、ただの屍に戻っていった。
「あァ、何とかなりそうだ!」
吼えたのは、誰に。
倒し方を知っても、これから切らねばならぬのは百を超える。
どんな英傑も、これほど立て続けに剣を振ること叶わない。
だがやらねば、死が待っている。己のは恐ろしくないが、
「邪魔でなければ」
血に汚れた手斧を持つ生地商人が、
図体に似合わず、やはり素早い。しかも切られた屍鬼は、敷地の外へ吹き飛ばされた。
「もったいぶるんじゃねェ」
「あんたにも思うところはあるだろうとね」
余計な会話は、それで終いにした。ともあれ生き延びねば、誰の思惑も通らない。
右に長剣を振れば、左の屍鬼どもが吹っ飛ぶ。正面の屍鬼の上半身が弾ければ、肉の噴水に紛れて長剣を突き出す。
偉丈夫と、それを超える巨漢の二人は、屍の山を築いていった。
数える余裕はなく、互いの他に動くものがあれば、直ちに切りつけた。動きを見きるだけの判断力など、とうに失っている。
「はあ……はあ……」
ほんの一瞬、波が途切れた。完全に不足している風を補うため、大きく息を吸う。
ふっ、と。目まいをしたのはまばたきの間にも満たない。
そんな隙を突くなど、どんな手練れにも不可能。の、はずだった。
「ぐ……ぅ……」
生地商人の声が籠もる。新たに押し寄せた一団を撥ね飛ばし、振り返る時間を作った。
「おい、おい! てめェ何があった!」
返るのは呻き声のみ。いまだ手斧は振るわれ続けたが、明らかに力を失っている。
見る限り、傷はない。何かされたというなら、こちらからは見えぬ側。
およそ
この男を傷つけるような新手は見えなかった。地上には。
「くっ——!」
ただならぬ気配を、軒の上に感じた。屍鬼の相手を疎かにしても、無視してはならぬと本能が訴える。
何か、居た。座って、こちらを見下ろして。
人間、の格好をしていた。腕、足、胴と腰と、手やら指やら。
だがどれも、立ち枯れた幹のごとく乾いていた。それでも人を天日に干せばこうなるのか? と想像に足る人間らしさは残る。
ただし、人間でない決定的な理由は他にあった。
頭がない。おそらくそれでも生地商人より高い背丈が、息づくように小さく揺れる。どの四肢も紐で繋がっているというに、一つの生き物と主張してやまない。
「何だてめェ、できの悪ィ人形だな」
言葉を解するのか、とは考えなかった。結果、理解はしたらしい。勾配の強い軒先で立ち上がり、人さし指をこちらに向ける。
「ちぃっ!」
目に止まらなかった。何かが、きっと指先が飛び、避けた
避けられたのは、先ほど気づいたのと同じ。悪意そのもののような、正体の知れぬ気配から逃れただけだ。
「笑ってやがる」
人形もどきは肩を揺らし、拍手をして見せた。それから一方の手をすっと掲げ、宙を掃くようにさっと動かす。
すると庭に溢れた屍鬼が後退りを始めた。ただの屍に戻ったのを除き、一体残らずが姿を消す。
「うぅ……」
ゆっくり、生地商人が膝を突いた。庇う仕草で背中に回ると、深い傷が一つ。
刺さった矢を無理やりに抜いた時と似ていた。ひどく痛むだろうが、この傷だけでは命に関わらない。
ほっと息吐き、「大丈夫だ」と背を叩いてやった。
「で、どうする。もう十分楽しんだだろ、お前も帰っちゃどうだ」
話しつつ、深い呼吸を心がけた。人形もどきに戦うつもりがあれば、体力が十分でも勝負にならない。
だからと諦める理由になるわけでない。いざという時、ああしておけば良かったと悔やむのが何より嫌いだった。
「何だ?」
頭がないというのに、人形もどきは上半身を回した。辺りを見回す動作に思えたが、何をしようというのか。
それは次の動作で決まった。仰々しく掲げた両手を、屋根に突き立てる。瓦など構わず、梁でも抜こうというらしい。
「てめェっ!」
叫び、軒下へ走った。屋根に上る方法と時間がない。梁を失えば、屋根の丸ごとが
想像の通りと言うのも馬鹿馬鹿しいほど当然に、天井が軋む。彼女を隠した部屋まで、二つの部屋を駆け抜ける、その暇も与えてくれない。
雷鳴にも似た、太い木の裂ける音がした。縦の梁を失えば、横の桁が落ちる。
このまま潰れるのは構わない。しかし彼女だけは生きて逃げてほしかった。
「
奥の部屋から、はっきりとした声が聞こえた。良かった、まだ無事らしい。
けれども答えることさえできなかった。歯を食いしばり、無為に時間を過ごす。このまま
女々しい思考も僅か。奥の部屋の戸が揺れる。開けようとして、開かないようだ。すぐに何やら叩きつける、激しい振動に変わった。
薄いといえ横引きの木戸を叩き割り、
「この子の名前に、
腹を撫で、
それでいい。と心から、しかし小さく頷いた。
「良かった。
何を言っている。もういいから、早く逃げろ。言葉にならぬ怒気を、激しい息遣いで表した。
「本当に、楽しかった」
最後に見えたのは、晴れやかな笑顔。白い牡丹の大きく咲き誇るような。
轟音はすぐに収まった。左右から倒れた壁が、互いを支える格好で。
「
また崩れるかも。そんなものは恐れるに足らない。瓦礫をくぐり、彼女の顔を拝める側に回る。
白い着物を赤く染め、胸に太い木を生やしても。
「
宙を泳ぐ彼女の手は、自らの腹を探しているらしかった。
「
それきり、
どれだけ濡らせば、彼女は「もうやめて」と言ってくれるだろう。あの性格では断ることをしないのかもしれない。
あり得ぬ妄想に縋った。
「あんた、そのままでいいのか」
生地商人に呼ばれたのは、それからすぐだったかも、随分が過ぎてからかも
分かるのはこの大男が、なぜか短刀を抜いて立っていること。
「子を頼むと言われたんだろ、出してやれ。あんたがやらないなら、オレがやる。その時は育てるのもオレだが」
何を言っているやら、全く理解が及ばなかった。
呆然と眺める
背の風呂敷を解き、見事な織の絹を取り出した。生の色であって、光にきらきらと輝く。
それを丁寧に、
おもむろに、短刀を構える。これが最後と示すように、
「俺がやるに決まってんだろ」
震える声。震える手に、生地商人は短刀を渡してくれた。
◆◇◆
「上物が台なしだ」
「あの女にと思ってたんだ、これでいい」
血みどろの絹を、生地商人は大事そうに畳んだ。いくら洗い落としたとして、血の汚れは真っ黒に染まるはずだが。
それくらいは好きにさせてやろうと、もう問うことはしなかった。
屍鬼のことも、人形もどきも、すっかり忘れていた。産声を上げる
倒れた屍鬼の姿さえない。
まあ、どうでもいいことだ。
生まれたばかりの子に母の姿を見せられない。代わりに焼き付けておこうと、
「……
目を疑う。
潰され、腹を割かれた妻の姿がなかった。はみ出して流れた血は残っているのに。
ふと、視界の端に動くものがあった。
見上げると、傾いた屋根に人形もどきの姿が。長い黒髪、蒼い瞳、血に汚れた白い着物を纏い、
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