第49話:迷宮あらわる(中)
「俺の後ろを歩くんじゃねェよ」
振り返り、二歩を離れた
久しく、予期せず笑った記憶がない。彼女に出逢うまでは。
それが今、厳しい口調を作れなかった。唇の端から笑う息が漏れ、止める気にもならない。
「優しいお声」
微笑みに驚く。おかげで頬の緩むのは治まったが。
「あァ?」
「憤怒の化身かと思いました。あなたの勢いに呑まれて消えるも良し、と。でもお慈悲に縋って良かった」
海賊退治のことだろう。他に戦う姿を見せてはいない。
「お前に慈悲をかけたつもりはねェ」
「では福を頼りました。どうも怖いくらいにご利益があって、申しわけなく思います」
「俺は——」
そこまで自分を下げるなと言いたかった。そうしてはいけない理由も、少しくらいは伝えてやるつもりがあった。
だが
全く違う世間話に花を咲かせる風に、盗み見る視線が絶え間ない。
「どうかされましたか?」
「いや」
話すのは住処に帰ってからだ。何でもないとごまかそうとした。
しかし、できなくなった。
次の言葉が何だったかも、もう忘れた。視界の中の異物に、意識が向く。
手。
人間の手だ、井戸の積み石に青白い手がかかる。それは井戸の内側から、よじ登る格好。
誰かが落ちたと言うなら、女たちがこうも平和にしているものか。
「
「——はい」
先とはまるで逆の言葉を、彼女は静かに頷いた。
「お前たちも来い」
「どうしたってのかねえ」
「まあまあ、
お喋りをせねば、手足が動かないのか。常々そう思うが、こんな時にもだ。
いや、むしろ良いのかもしれない。あの手が何者であれ、騒いで得はなかった。女たちはのろのろと立ち、こちらへ歩む。
「ひっ、ひいぃぃ!」
中の一人が悲鳴を上げた。間際に居た者が、意図せず井戸を覗いたのだ。「手、手ぇぇ」と叫び続け、近くに居たもう一人も駆け寄る。
「チッ! 寄るな、こっちへ来い!」
悲鳴が二つに増えた。けれどもすぐ、はたとやむ。
二人ともが、膝から崩れ落ちた。白目を剥き、青褪めて動かない。
毒気か。
口と鼻を袖で隠し、女たちを急かす。
「逃げろ、他の者も近づけるな!」
女たちは隣人の倒れたことに気づき、助け起こそうとした。なぜか、触れた手がびくっと離れる。
猶予はない。倒れた者は諦め、無事な者を蹴飛ばして逃がそうとした。
一歩、踏み出したその時。井戸が溢れた。
生気を感じさせぬ腕ばかりが四、五本。真上に突き出したと思えば、その次は数十本。
波に漂うように、ゆらりゆらり。しかし一つずつが別々に動く。
「逃げるぞ」
向きを変え、駆けながら
「あっ、あの方たちは」
「後で戻る。お前を守るのが先だ」
戻るまで無事でいれば。と注釈は付くが、嘘ではなかった。
横抱きにした
「私はここに居れば?」
住処に戻り、長剣を取った。下ろした
相手の動き方によって、息を潜めているのが良いかもしれない。建物を壊すような魔物なら、ここでは近すぎた。
数拍、迷う。と、井戸の方向から轟音が響く。地面も揺れた、
「この音、何でしょう」
最初は大きな物の倒れる音だった。木材の折れ、土壁の崩れる、即ち家屋の。
ならばここでは危うい。再び
「畑の石でも除けてんだろ」
こんな時に誰が
「
井戸とを隔てる隣家が傾く。抱いた
彼女も残る一方の手を
「私はいつでも、ご主人様の仰る通りに」
どっ、と巻き起こった砂塵が背を押す。近隣の数軒が、まとめて倒れた。
揃って井戸のほうへ向けてだ。しかもなお、ずるずると引き寄せられる。
それは到底、信じがたい光景だった。
建物を幾つも崩し、どうやって動かしているのか——だけでなく。
もうもうと立つ砂煙さえ、みるみる吸い込まれる。
まるでそこに巨大な生き物が口を開け、何もかも呑み込もうとするようだ。
そんな化け物の話は、神話にしか聞いたことがないけれども。
「何だってんだ、こりゃァ」
毒吐き、走る。井戸の面する大通りのほうへ。そこに何の境界があるのか、通りの向こうは残らず無事なのが見えた。
脳天気に、見物も大勢。
「何なの、手ばっかり。気持ちが悪いわ」
野次馬の一人が悲鳴めく。
言う通り、全身に白い布をかぶった魔物が見える。人間が四つん這いをしたようでいて、左右二本の腕が何対も数えきれない。
「あっ……」
ふいに、叫び声の女が倒れた。連れの男が助け起こそうとして、「冷たい」と手を離す。
「具合いが悪いのか?」
「いやそんなことは。あの手の化け物を見ていたら急に」
女の青褪めた顔を、周囲の者が案じて覗く。中の一人に問われ、連れの男が答える。
と、今度はその男が「うっ……」と倒れた。
「見るんじゃねェ!」
立ち塞がるように両手を掲げ、
よほど新参でなければ、知らぬ者のない顔だ。誰もが黙り、次の言葉を待った。
「口にも出すな。居るんだ、『私を見るな』なんてふざけたこと吐かす魔物がな」
そういう魔物は幾つかある。
「なんだそりゃあ。
「そうだ、頼む」
口々に退治を願う声が上がる。
望むところではあった。これほど迷惑な魔物は、とっとと殺してしまうに限る。
「そうしてェが、どうやって近づくか——」
ちら、と視界の端に映した。
牛を三頭も連ねたほどの長い胴体。そこに千本も腕を抱えたような魔物は、井戸のあった場所からまっすぐ北へ向かう。
牛の散歩の速度で、辺りの何十軒を呑み込みつつ。
建物だけでなく、地面も。そこらじゅうが流砂のごとく、魔物の足下へ流れ行く。
あんなところで、まともに剣を振るえはしない。かと言って弓で狙うにも、既に倒れた者と同じになるだろう。
「
「
「
落ち着いて考えさせろ。苛とする中、また事態が変わる。
「おい、手が増えた」
見るな、話すな、と言ったのに。誰かが指をさして倒れた。
たしかに増えた。手が、というより魔物そのものが。
一体から二体。二体が四体に。そこへあったものが、ぼやけて見えた次の瞬間には倍に増えている。
終いに八体となり、綺麗に等間隔で並んだ。
どれもやはり、北へ。八体の呑み込む範囲は、およそ大通りと同じ長さに達した。
なす術なく、町の北半分が瓦礫も残さず消えていく。
「どうしようもねえよ」
詰め寄る住人たちを掻き分け、脇へやって来る誰かが居た。
この無能を庇おうってらしい。
そう思い、見上げる大男の名を思い出そうとした。が、分からなかった。
歳の頃は二十代の半ば。先ほど初めて見た、生地商人と思い当たる。
なるほど新参者なら、今までの
両の腕を広げれば、常人の二倍に近い。そんな男が見下ろせば、
それから、誰もがその場を動けない。
うっかり、あるいは無謀に魔物の言及をして倒れる者。失われる街の姿に、気分を悪くする者。
そういう他は、固唾を呑んで見守った。逃げ惑う北側の住人に、ろくな声もかけられず。どうしようもない、と生地商人の言った通り。
人々の逃げる先、町の北に巨大な岩が持ち上がった。ただ荒れ地の続くだけの土地に、どこからともなく。
消えゆく街。十人分の背丈で聳える岩壁。
この巨大な檻を、人間にどうこうできると言い出す者は居なかった。
「おい……」
やがて、八体の魔物が消えた。岩壁の中央に溝を穿ち、その奥へ。
破壊と殺戮が終わった。
きっと誰もがそう思い、もう魔物に言及して良いのか迷いながらざわめく。
もうここへは住めないが、彼女さえ居ればと。
「おい、今度は何だ」
細工師が削り取ったように、広く平らな土地が残る。仮の住処も失われたが、
生き残った住人には、縁者の消えた土地だろう。一人とて立ち去る者なく、呆然と眺めていた。
「土が……」
ぼそぼそと、呻くような声が続く。
何がどうした。見ればたしかに、土地の色が違っていた。
魔物の消えた溝。その奥に見える洞窟から、血の染み出すように。
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