第47話:手練れの潰える時

「なんで俺の言うことを聞かねェ」


 偉浪ウェイランの言葉は間違いなく、青白い顔の女に向けられた。

 鏃そのものの鋭さを持った眼光、残り一挙動で懐へ入れる足の構え。どこを見てもだ。

 ただし一ヶ所。だらんと地面に向く大鉈を除いては。


「何ぞ不満と言うなら、ゆるりと話そうか?」


(動いた……!)

 女の口が、だ。よく見ればまばたきも。

 思い込めば精巧な彫り物としておけたのに、ああも滑らかに話されては生き物としか看做せない。


 都度、ぽろぽろと落ちる額や頬が、火傷か何かむごい傷痕のようで不憫にさえ思う。


「父さん、知ってるのか?」


 訝しく、喘ぐように。手斧の柄を、破浪ポーランは何度も握り直した。いつもと同じに父親と呼吸を合わすべく、足先も踏み出す機会を探っている。


 たしかに、未知の者への言葉にはおかしかった。偉浪ウェイランの知る誰か、というなら考えもなく刃を向けるべきでない。


(かもしれないけど)

 迷う破浪ポーランを助けてやりたかった。決め手になる何かがないか、どこまでも果て知れぬ迷宮の先へ目を走らせた。


「……破浪ポーラン、見ないで。あれが来るわ」


 どこからともなく照らされる、ぼんやりとした明かり。その中に遠く、豆粒ほどの靄が光った。


 付近を明らかにするのとは、また別に。ちょうど灯籠を提げたがごとく、下から照る。

 それが何ものか、じっと目を凝らして後悔した。


「千の?」

「ええ。ごめんなさい、私は見てしまったわ」


 さっと、顔を背けた。その動きで、彼も方向を察したろう。

 偉浪ウェイランと女の向かい合う、右手。牛の歩みで、おそらくこちらへやって来る。


「でも気にしないで。私は自分でどうにかできるから」


 首にかけた大念珠を持ち上げて見せる。またあの凍えに襲われるのなら、どうもできる物でない。


「どうにかって」


 信じられなかったか。破浪ポーランの声に、迷いの色が増す。父親と春海チュンハイと、交互に目を向くのが忙しい。


(私なんかを気遣ってくれるのね)

 彼にとって迷惑な相手と、最初から自覚している。その上で神宣に納得してもらう自信もあったが、どうやら勘違いだった。

 けれどももう、疎まれていなければそれで良い。


「いいから。今はお父様でしょう? あの人形と向かい合ったままじゃ危ないわ」


 両腕を動かし、まだ凍えていないと示す。破浪ポーランも頷き、偉浪ウェイランへ向く。

 が、すぐに振り返った。


 気にかけられるのを、嬉しいと思う。それは正直な気持ちだが、いや駄目だとも同じ重さで抱えた。


「一度に二つは無理よ」


 背負い袋を地面に放り出す。返る言葉を待つ気はなかった。天界の門シャンタンを取り出し、青白い女に向ける。

 片方の抜けた扉を開き、自身の内の神通力に意識を割く。


「あれも屍鬼に違いないわ。冥土へ送れば、鬼徳神ゲドがきちんと扱ってくれる。こんなところへ迷わせることがかわいそう」

「——分かった」


 他でもない、あの女自身のためでもある、と。破浪ポーランなら無下にはすまい。

 狙った通り、半拍で彼の声から迷いが失せる。小賢しい思いつきばかりがうまくいく。重い胸の痛みをため息で吐き捨てた。


「生きた道の先、冥土を守る鬼徳神ゲドに申し奉る。眠りを知らぬ者に標をお与えください。しがらみを知らぬ、安らぎの場所をお与えください」


 視界の端に灯籠の色が滲む。もはや一瞬の猶予もない。

 ただ、安息の祈りは祝符になかった。当てにせず、春海チュンハイ自身の神通力を高める必要がある。


「人形は私が。破浪ポーランはお父様を」


 笑む余裕もなく、口早に。天界の門シャンタンが白く光に包まれつつあるのは、破浪ポーランにも見えるはずだ。


「行くべき場所を知りなさい!」


 これは祈りの言葉。焦る気持ちが語気を強める。

 合図と捉えたか、破浪ポーランが駆けた。手斧を腰へ戻し、父親の下へ。


 背後へ千の手が迫る。それでも偉浪ウェイランは動こうとしなかった。

 気づいていない、はずはない。あの猛者に限って。そう思うが、魅入られたように女と見つめ合う。


安息をアンジィ!」


 真白い虹が、美しい弧を描く。破浪ポーランの脇を追い越し、青白い女へ。

 人の世界に迷う魂は、それで冥土への道すじを知る。後は素直に従うか、抗って留まるか。


 果たして、女はどちらでもなかった。

 白色の虹は思った通り、女の在り処へ橋を架けた。だが足下を跳ね、また次の弧を作る。

 そこには何もないと主張するように、ただただ遠い果てへ跳ねて消えた。


「父さん逃げるよ!」


 ほんの一瞬を遅らせ、破浪ポーランの手が父に届いた。触れると同時、宙に腕が浮かび上がる。


 肘から先、のみ。

 隆々とした男の腕が吊る糸もなく浮かび、移動し、破浪ポーランの足につかみかかる。

 彼の背後、振り向かねば見えない。


「危ない!」


 叫んだ。知らせることができるのは、春海チュンハイだけだ。

 しかし間に合わなかった。

 ぎゅっと、乳を搾るかに指が締まる。音はしない。刎ねられた足が舞い飛び、青白い女の手へ落ちる。


 支えを失い、倒れた。破浪ポーランではなく、偉浪ウェイランが。

 あまりに速かった。春海チュンハイの目には、何がどうなったか追いきれなかった。


 分かるのは父が子を庇い、残った右足を失ったこと。

 それで興味をなくしたか、女は迷宮の奥へ向いて歩き始めた。

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