第46話:深層に待つ者
(オレの足を持って……?)
取り返しのつかぬ誤りをしたらしい。
冷水を浴びせられたように、いや氷の池へ浸けられたというほどの寒気を覚えた。
だがあの瞬間、他にどんな選択肢があったか。ありはしない、むしろ命の繋がったことを驚くべきだ。
「父さん待って、一人じゃ——」
問えば
まだ当然に、
「オレも行く」
「無理に決まってるだろ」
壁を頼りに立とうとした
腰を浮かすのさえうまくいかず、魔物を呼びかねない叫びで勢いをつけたが、転げるだけだった。
「
「……たぶん死んでしまうわ」
双龍兄弟と言えど、拘束する術は祝符にある。今の
それだけに、術のかかり過ぎる可能性も高かった。
「じゃあ縄で括るしかないな」
命の繋がった
動けなくし、空虚の術で見えなくしておこうと言うのだろう。
「その棺桶でいい」
「拘束の術にも耐えられない奴が?」
黙々と、厳重に縄をかける
「空虚」
お神酒で描いた円から、蒸気めいた靄が上がる。薄く布を引くように拡がり、壁ぎわに座る
外から見るのは初めてで、不思議な光景ではあった。活発に好奇心を働かす心境ではなかったが。
「足……」
走ってすぐ、ひと言を零した。
どうすれば良かったか、あれで良かったはずだ、などと言葉を足す気力が続かなかった。
「二人揃えたら、取り替えればいい。きみがつらいだろうけど、俺も手伝う」
即座の答え。
正しく戻すなら他にない。至極単純に言われただけが、素直に頷けた。
「うん、お願いするわ」
胸にのしかかった重いものが、半分ほども軽くなる。残りは
滴った血痕を目印に、
待たないのはいつも通り。と言えばそうだが、今この時にかと思う。
「お父様、どうして急に?」
口調や表に見える態度が違ったわけではない。ただ、こちらと同じ速度で走ったなら、かなりの先を進んでいるはず。
「分からないよ」
ただひと言。待っても、別の言葉が重ねられることはないようだ。
分からないのはもちろん。しかし突然、
「あの——そう。双龍兄弟も歯が立たないような相手って。怖くない?」
「あいつらも強いからね、問題ないとは言わないよ。でもこれが父さんと俺の仕事だから。怖かったら
(良かった、
声の調子は変わらぬのに、やはり先のひと言を別人のように感じる。
「大丈夫。全然そんなのは怖くないわ」
「そうなのかい?」
意外そうな彼の声に、ほんの僅かの苦笑をした。まま「ええ」と肯定すれば、今度は
(分かってるくせに)
とは、また猶予のある時に続けることにした。
「急ぎましょう。私なんかが居ても、お父様には邪魔かもしれないけど」
「そんなことはないよ」
一瞬の隙間も空けず、きっぱりと。
(そう言ってくれるなら、やっぱりどんな魔物も怖くないわ)
今の
それからすぐ、血痕は階段を下った。一つずつの痕跡が段々と大きくなる意味を、考えぬように走る。
「ねえ、深層っていつもこう穏やかなの」
「おかしいよ。こんなに魔物と遭わないなんて」
「言うのを忘れてたけど。この辺りに出るのは、ほとんど屍鬼だよ」
人や獣が冥土へ運ばれ、何らかの理由でその向こうへ行けなかった。つまりは神の世界からも、罪を償う冥土の奥底からも拒まれる者が在るという。
屍鬼は冥土の入り口付近を、いつか時の流れが身を削りきるまで彷徨う。
ある僧は、それこそが屍鬼に課せられた罰と言ったそうだが。人の世界で見るとは思わなかった。
ただ、どういうものか理解している分、百足よりはましかもしれない。
「もう少し早く言ってほしかったわ。でも
「そりゃあ心強いね」
彼の役に立てるかもしれない。首にかけた大念珠をぐっと握り、鼻息を荒くした。
若い女の頑張り方として正しくないのかもしれないが、自分にはこれしかないと。
その甲斐あってか、機会は直ちに訪れた。
「……ねえ、深層っていつもこうなの」
「おかしいよ。こんなのは初めて見た」
一つ。ここまで幾つかあったのと同じ、何でもない曲がり角を折れた。
壁がない。天井は同じ高さで続くのに、足を止めた先に立つ壁がなかった。
どこまでも続く広大な空間を、部屋と呼んでいいのかも不明だ。
その真ん中。
正面の
女だ。青白い痩けた顔に、蒼く光る双眸。
腕も脚も枯れ枝を宛てがったかに細く、皮膚の乾き具合は干し魚のごとし。
あれが人間ならば、生きていることを不可思議に思う。
しかし人間ではない。纏った白い着物は、関節ごとに編み紐で繋がる。
ゆえに見える。首、肩、手首、他のあらゆる四肢を繋ぐのも細い紐だった。
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