第46話:深層に待つ者

(オレの足を持って……?)

 取り返しのつかぬ誤りをしたらしい。

 冷水を浴びせられたように、いや氷の池へ浸けられたというほどの寒気を覚えた。


 だがあの瞬間、他にどんな選択肢があったか。ありはしない、むしろ命の繋がったことを驚くべきだ。

 春海チュンハイにはそう思える。


「父さん待って、一人じゃ——」


 問えば破浪ポーランは、どう答えるだろう。見つめたが、彼は彼で決断を迫られていた。

 まだ当然に、飛龍フェイロンを捜さねばならない。けれども小龍シャオロンをどうして良いものか。


「オレも行く」

「無理に決まってるだろ」


 壁を頼りに立とうとした小龍シャオロンに、破浪ポーランは手を貸さない。

 腰を浮かすのさえうまくいかず、魔物を呼びかねない叫びで勢いをつけたが、転げるだけだった。


春海チュンハイ、こいつを動けなくできるかな」

「……たぶん死んでしまうわ」


 双龍兄弟と言えど、拘束する術は祝符にある。今の小龍シャオロンなら、抗うことも叶うまい。

 それだけに、術のかかり過ぎる可能性も高かった。


「じゃあ縄で括るしかないな」


 命の繋がった小龍シャオロンを自由にしておけば、一人ででも動くに違いない。

 動けなくし、空虚の術で見えなくしておこうと言うのだろう。


「その棺桶でいい」

「拘束の術にも耐えられない奴が?」


 黙々と、厳重に縄をかける破浪ポーランの声は冷たかった。

 小龍シャオロンもそれ以上は言わず、ふて寝の風に目を閉じた。


「空虚」


 お神酒で描いた円から、蒸気めいた靄が上がる。薄く布を引くように拡がり、壁ぎわに座る小龍シャオロンが掻き消えた。


 外から見るのは初めてで、不思議な光景ではあった。活発に好奇心を働かす心境ではなかったが。


「足……」


 走ってすぐ、ひと言を零した。

 どうすれば良かったか、あれで良かったはずだ、などと言葉を足す気力が続かなかった。


「二人揃えたら、取り替えればいい。きみがつらいだろうけど、俺も手伝う」


 即座の答え。

 正しく戻すなら他にない。至極単純に言われただけが、素直に頷けた。


「うん、お願いするわ」


 胸にのしかかった重いものが、半分ほども軽くなる。残りは飛龍フェイロンを見つけてから、と切り替えられた。


 滴った血痕を目印に、偉浪ウェイランを追う。

 待たないのはいつも通り。と言えばそうだが、今この時にかと思う。


「お父様、どうして急に?」


 口調や表に見える態度が違ったわけではない。ただ、こちらと同じ速度で走ったなら、かなりの先を進んでいるはず。


 小龍シャオロンの惨状を目の当たりにして。正体不明の魔物が近くに居ると知って。

 偉浪ウェイランほどの熟練者には、警戒に値しないのかもしれない。しかし違和感を覚え、問うてみた。


「分からないよ」


 ただひと言。待っても、別の言葉が重ねられることはないようだ。

 分からないのはもちろん。しかし突然、破浪ポーランとの間にも格子を落とされた心地がした。


「あの——そう。双龍兄弟も歯が立たないような相手って。怖くない?」

「あいつらも強いからね、問題ないとは言わないよ。でもこれが父さんと俺の仕事だから。怖かったら春海チュンハイは、小龍シャオロンと一緒に居てくれてもいい」


(良かった、破浪ポーランだ)

 声の調子は変わらぬのに、やはり先のひと言を別人のように感じる。


「大丈夫。全然そんなのは怖くないわ」

「そうなのかい?」


 意外そうな彼の声に、ほんの僅かの苦笑をした。まま「ええ」と肯定すれば、今度は破浪ポーランが「どうした?」と戸惑う。

(分かってるくせに)

 とは、また猶予のある時に続けることにした。


「急ぎましょう。私なんかが居ても、お父様には邪魔かもしれないけど」

「そんなことはないよ」


 一瞬の隙間も空けず、きっぱりと。

(そう言ってくれるなら、やっぱりどんな魔物も怖くないわ)

 今の春海チュンハイに怖れるものは別にある。この時はっきりと自覚した。


 それからすぐ、血痕は階段を下った。一つずつの痕跡が段々と大きくなる意味を、考えぬように走る。


「ねえ、深層っていつもこう穏やかなの」

「おかしいよ。こんなに魔物と遭わないなんて」


 小龍シャオロンを見つけて以後、魔物と出くわしていなかった。先行する偉浪ウェイランが倒した跡もない。


「言うのを忘れてたけど。この辺りに出るのは、ほとんど屍鬼だよ」


 人や獣が冥土へ運ばれ、何らかの理由でその向こうへ行けなかった。つまりは神の世界からも、罪を償う冥土の奥底からも拒まれる者が在るという。

 屍鬼は冥土の入り口付近を、いつか時の流れが身を削りきるまで彷徨う。


 ある僧は、それこそが屍鬼に課せられた罰と言ったそうだが。人の世界で見るとは思わなかった。

 ただ、どういうものか理解している分、百足よりはましかもしれない。


「もう少し早く言ってほしかったわ。でも天界の門シャンタンで、私が冥土へ送ってあげる」

「そりゃあ心強いね」


 彼の役に立てるかもしれない。首にかけた大念珠をぐっと握り、鼻息を荒くした。

 若い女の頑張り方として正しくないのかもしれないが、自分にはこれしかないと。

 その甲斐あってか、機会は直ちに訪れた。


「……ねえ、深層っていつもこうなの」

「おかしいよ。こんなのは初めて見た」


 一つ。ここまで幾つかあったのと同じ、何でもない曲がり角を折れた。

 壁がない。天井は同じ高さで続くのに、足を止めた先に立つ壁がなかった。


 どこまでも続く広大な空間を、部屋と呼んでいいのかも不明だ。

 その真ん中。春海チュンハイの視界の中央に、背の高い何者かが立つ。


 正面の偉浪ウェイランより、頭の位置が半身分も高い。それでいて艶めく黒髪は、地面に達してなお折り重なる。


 女だ。青白い痩けた顔に、蒼く光る双眸。

 腕も脚も枯れ枝を宛てがったかに細く、皮膚の乾き具合は干し魚のごとし。

 あれが人間ならば、生きていることを不可思議に思う。


 しかし人間ではない。纏った白い着物は、関節ごとに編み紐で繋がる。

 ゆえに見える。首、肩、手首、他のあらゆる四肢を繋ぐのも細い紐だった。

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