第45話:飛龍の行方

 男同士、小龍シャオロンを落ち着かすのは破浪ポーランに任せた。

 墨の色に近づく血溜まりから天界の門シャンタンを引き上げ、丁寧に拭く。飾りに過ぎないが、支柱の幾つかが折れていた。


 それはいい、良くないのは門扉の一方が外れたこと。嵌め直そうとしても、軸の部分が欠けていた。直すのは職人でなくとも良いが、春海チュンハイには無理だ。


「千の手と遭ったのか?」

「……見つけた」


 呼吸の穏やかになったのを見計らい、破浪ポーランは問う。

 今はゆっくりさせてやりたい。春海チュンハイが思うのと、彼も同じだろう。


 だが、そうはいかなかった。闇雲に飛龍フェイロンを捜すより、小龍シャオロンから手がかりを得たほうが早いに決まっている。


「この階層だな?」


 先に見つけた血溜まり。まずはあそこで争いになった。おそらく春海チュンハイの想像と同じが、念を押された。


 しかし小龍シャオロンは首を横に振る。つらそうに眉根を寄せていたが、しっかりと見返して。


「お前たちの言う通りだった。千の手は三階層に居た」

「ええ?」


 ここは十階層だったよな。とたしかめるように、破浪ポーランは振り向く。

 どこかに案内板があるでない。見渡す目とぶつかった春海チュンハイが頷き、壁にもたれて水袋を傾ける偉浪ウェイランも否定しなかった。


「戦いながら——?」


 遭遇した魔物を倒し、罠に気を遣って進む。それが幾日もに渡るこの道のりを、あの千の手と一緒に。

 まさか、と破浪ポーランの声が語っていた。


「違う、連れてこられた」


 小龍シャオロンは懐を探り、大きな手にちょうどの手鏡を放り投げた。


「千の手を直に見ては戦えねえ。だから鏡を使って切りつけた」


 硬い地面で甲高い叫びが上がり、円い縁を歪めて倒れる。

 拾うと、よく磨かれた銀面に久しい春海チュンハイの顔が映った。頬の辺りが少し痩けたかもしれない。


「千の手なんて嘘だ。何本落としたって、なくなりゃしねえ。きっと奴は、痛いとさえ感じてねえ。だって地面に落ちたはずの腕が、いつの間にか消えてた」


 ない髪が掻き毟られ、剃った頭に血が滲む。

 手を握り、止めてやるべきか。悩んだが、今は堪えた。


「あいつはオレたちなんか、眼中になかった。いくら切っても、構わず行こうとしやがる。こっちも何ともねえから、兄者が鏡を捨てた」


 怒りの熱に、小龍シャオロンの声は弾みをつけた。だが同時に、畏れの冷たさで震えもした。

 それは時に喰ってかかる口調と、縮こまった両肩にも顕れる。


小龍シャオロンやったぞって。青白い血が地面に散ったのも見た。オレはまだ鏡越しで、あの陰気臭い手が一本、兄者に触れようとして」


 鏡を介して見ることが、あの凍えを避けることになるのか。春海チュンハイには分からない。

 破浪ポーランを見ても、厳しい目つきで頷くだけだ。


「『危ねえ』って言った。なのに兄者は気づきゃしねえ。だからオレも自分の目で、あの手を蹴り飛ばそうとした。だけどよ、なかったんだ。鏡には映ってたのに」


 疲れた声が「なんでだよ」と。両手で顔を覆い、小龍シャオロンは息を吐く。巨大な風の塊が、離れた春海チュンハイの髪をも吹き飛ばしそうになった。

 次の息を継ぐのに、幾ばくかも時間が必要だ。誰もそれを急かすことはしない。


「……ここは十階層だろ? 一瞬、目まいでもしたみたいな感じがあった。気づいた時、オレの足はなかった。立ってられなくて、倒れて、兄者が叫んだ。『返しやがれ』って。オレの足は、千の手が持ってた」


 それがあそこか、と血溜まりを振り返る。もちろん遠く離れ、見えるはずはない。


「兄者は待ってろって言ったんだ。でもオレも行くって言った。兄者だけじゃ頼りねえ。だってそうだろ、兄者が鏡を見てりゃ、こうなってねえ」

「ああ……二人で追いかけたんだな」


 小龍シャオロンの目に、飛竜フェイロンはまだ戦い続けているのかもしれない。鼻水をすすり、濡れた瞳が行く先の闇を睨む。


「オレの足が。これっぽっちなくなっただけで、うまく動かねえんだ。情けねえったらよ、なのに兄者は『悪い、すまねえ』って。だから、気持ち悪いって言った。そしたら『それもすまねえ』だってよ」


 片足を失った弟に肩を貸して進む。遅々と進めまい。

 フォウの案内は、決して短い距離でなかった。その間、他の魔物も襲ったはずだ。どんな行軍か、妄想するのも恐ろしい。


「正直、追いつけねえと思った。でもまあ贅沢は無理でも、親子三人で暮らすくらいは儲けた。のんびりしようぜって言うつもりだった」


 隠居するなら、それも良いだろう。片足を失っては不便もあろうし、杭港ハンガンへ留まるのはつらいかもしれないが。

 昨日まで健やかだった息子二人が、今日からもう戻ってこない。あの母親に、そんな残酷な思いだけはさせずに済む。


「けど」


 ぎりっ、と擦り合わす音がした。臼を挽いたようでもあって、甲高い耳障りな。

 それが歯ぎしりと気づくには、当の小龍シャオロンが頭を抱えるまでかかった。


「奴が居たんだ」

「奴? 千の手に追いついたんだな」


 追いつけたことを良かったと言っていいものか、破浪ポーランの声も迷って聞こえた。

 正解がどうであれ、事実は違う方向へ進んでいたらしいが。


「そうじゃねえ——」


 力なく、小龍シャオロンは否定に首を振る。

 両腕に頭を抱えたままで、表情が見えない。けれども引き攣った声を聞けば、見たも同然だった。


「初めて見た。話に聞いた覚えもねえ」

「どんな奴だ」

「人形——いや人間。どっちだか分からねえ。人間の手足で人形を拵えたっていうのか」


 人間の手足で人形。つまり人の形を作れば、それはただの人間でないのか。どうも小龍シャオロンの恐れるものの、見栄えが思い浮かばない。

 破浪ポーランも知らぬ様子で「人形?」とだけ。


「ええと。じゃあ飛龍フェイロンは、その人形を追いかけたんだな。千の手じゃなく」

「兄者が言ったんだ、『小龍シャオロンの足を返せ』って。そしたら奴が答えた、代わりの物ならって」

「魔物が口を利いたのか」


 人間の姿をして、人間の言葉を喋る。やはり人間でしかないように思うが、小龍シャオロンは頷いた。


「ああそうだ。それで奴は、兄者の足を切り落とした。オレの足の代わりに、兄者の足を寄越しやがった」


(ええと飛龍フェイロン小龍シャオロンに足を寄越した?)

 複数の足が脳裏を飛び交い、修羅場と化した。何がどうしたか、すぐには理解が及ばなかった。


 できればもう一度、言ってほしかった。だが先に口を開いたのは、春海チュンハイでない。


「おい。そいつァどこへ行った」

「あ、あっちだ。オレの足を持って、兄者が追っていった」


 通路の先を、小龍シャオロンは指さす。地面に点々と伝う小さな血痕を、兄のものだとも。


 問うた偉浪ウェイランは、すぐに進み始めた。小龍シャオロンを放ってもおけない破浪ポーランを、顧みることなく。

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