第44話:誤りの結果

「くそ」


 黒蔡ヘイツァイの呼ぶ通り、木偶のごとく破浪ポーランは立ち尽くす。高い視線から見下ろし、一歩踏み出せば手の届く小龍シャオロンに触れようとする気配がない。


 強く噛む口もとから、氷を砕くかの音が聞こえる。小さく震える拳も、皮膚がはちきれんばかり。

 倒れた小龍シャオロンは動かない。動けるはずもない。


 左の脚が、膝下で途切れていた。裂いた布で止血を試みてあったが、地面に大きく広がった血液で効果のほどが知れた。

 三人分も厚い胸板が僅か揺れ、ただ静かに眠っているだけに見えた。これほどの傷を負った男が。


「私が居るの。諦めないで」


 強く言った。刺々しく、怒ったように聞こえたろう。後悔したが、釈明の時間も惜しい。

 小龍シャオロンの肩に触れ、両膝を突いた。血の海に立つ波紋を、見なかったことにした。


破浪ポーラン、足を」

「あ——ああっ」


 目を丸くした彼が、慌てて頷く。

 ぎゅっと、小龍シャオロンは何か大事そうに抱えていた。それはおそらく当人の足で、春海チュンハイでは奪い取れない。


 案の定。意識を失っていてなお、その腕をこじ開けるのに、破浪ポーランさえ苦心した。

 その間に背負い袋から、天界の門シャンタンを取り出す。


ファン?」


 まだ続くと思った階段のなかったような、空振りの心地を手に味わった。

 おや、と袋を覗き込む。記憶違いを疑い、首や胸を探ってもみた。


 共に旅した、あの小さな蛇の姿がない。

 背負い袋の口は当人がその気になれば、ちょうど出られる程度に緩めてあった。つまり袋を振り回したとして、飛び出てしまう可能性は低い。


 縄を下りた時、たしかに入れた。そして落下したけれど、居ないはずがなかった。

(何だか迷宮を気に入ってたみたいだし)

 人間と共に在るより、独りが良かったのかもしれない。幼い身には、過酷すぎる場所を選んだものだが。


 仕方がない。出ていった者を寂しがる暇もない。

 革の編み靴を履いた左足が、目の前に出された。他人の足のみを受け取ったのは、人生で経験だ。


「生きる道を誤るとて、また生きる道の一つ。行き過ぎたる時、他に頼るのもまた生きる道。生徳神シィドの教えに従い、常道への戻り道を手伝います」


 止血の布を破浪ポーランが外した。固まりかけた黒い血と、新たに流れた鮮血が渾然と溢れる。

 首にかけた大念珠を右手に取り、左手で足を当てがう。すとんと包丁で落としたかの、全く平たい断面に。


 天界の門シャンタンから、黄金の光が射した。脚と足先と、輝く球が二つ。

(これなら)

 繋ぐことはできる。

 安堵の思いは、祈りにとって邪念だったろう。光が弱まりかけ、意識を改めた。


大癒ダァユ


 春海チュンハイはまだ、これほどの怪我を治す神通力を得ていない。だが天界の門シャンタンで神との繋がりを高め、祝符の力を強めることはできる。


 本来。切り分かれ、物と物とになった肉体が一つに戻ることはない。

 しかし神に祈り、許されれば、不可能も可能となる。僧とは何と尊い役目か、幼き日の春海チュンハイが、多くの先達に憧れた気持ちを胸に膨らます。


「足が、繋がった――!」


 弾む破浪ポーランの声。

(まだよ)

 血液と共に流れ出た小龍シャオロンの生きる力を、自身の神通力で補う。そういうつもりで、術を続けた。


「う……」


 小さな呻き声。

 ならば死の淵からは引き戻せたはず。そっと手を離し、通わせた神通力を絞っていく。急激に途絶えさせては良くないと、僧院の兄弟子に教わった。


小龍シャオロン、聞こえるか。見えるか?」


 漬物石の眼が開く。難儀げに、ゆっくりと。


破浪ポーラン……?」


 まだ身体は動かない。天井の側の左目だけが、寝ぼけ加減でようやく。

 語気もぼんやりと、しかし息苦しそうに息が乱れ始めた。突然に不調を取り除いたせいで、風の足りぬことを小龍シャオロンの身体が今さらに気づいたのだ。


 この呼吸が落ち着けば問題ない。息も切れ切れの春海チュンハイに、そう教えてやる余力はまだなかった。


「お前、死ぬところだ。春海チュンハイが治してくれた。俺はもう駄目と思って——良かった!」

「何言ってんだ……?」


 破浪ポーランの狼狽も大概だが、小龍シャオロンの意識が追いついていない。焦るなと言いたくとも、声にならなかった。


「だからさ、見えるか? 血だらけだ、お前は死ぬところだった。足がちょん切れてた」

「足が?」


 倒れた巨体が揺れる。己の足を見ようとしたらしいが、さすがにまだ難しい。

 どのみち血液に浸したままでおけない。破浪ポーランが肩を貸し、壁によりかかって座らせた。


「足が切れる……?」


 気を失う前のことだ。覚えていなかったとして、あり得る。

 険しく細めた破浪ポーランの目が、春海チュンハイを向く。「大丈夫」と、ようやくひと言は答えられた。


「足……」


 左右揃いの編み靴。長褲ズボンは左だけが千切れている。

 そのせいだろう。小龍シャオロンはどちらと問うこともなく、自身の左脚をさすった。

 血の気の引いた脚を、青白い手で、窪んだ眼で。


「兄者」


 ああこれだ、と思う。小龍シャオロンの声に、意思が宿った。

 夢見心地の、雲の上から放ったような声でない。大きな太鼓を打つのに似た、腹の底へ響く音。


「そうだ、飛竜フェイロンはどこへ行った?」


 ここぞと問う破浪ポーランと、まだ視線は合わなかった。繋がった脚、もしくはその先の地面を眺め、小龍シャオロンは全身を震わせる。


「兄者あっ!」


 絶叫。

 その声一つで、突風が吹いたとさえ感じた。耳の奥が、まだびりびりと震えてもいる。


 飛竜フェイロンにも何かあった、のは間違いなかろう。けれども兄の幻でも見たとして、どうもおかしい。

 小龍シャオロンが見つめるのは、やはり自分の左足だ。


「どうした小龍シャオロン、何があった!」


 血の気を取り戻しつつある足に、平手が打ちつけられる。欲しいものはこれでない、と赤子がだだをこねるように。

 明らかに取り乱した小龍シャオロンを、破浪ポーランは壁に圧しつける。しばらく、兄を呼ぶ声がやむことはなかった。

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