第43話:予期せぬ

「まさかこれ」


 寝そべるほどの円い血溜まり。そこから全周へ、細かな飛沫が散った。

 破浪ポーランは脇に片膝を突き、寒天で固めたような血糊を掬い取る。


「いや。十階層へ出入りする探索者は七、八組居るよ」


 厳しい目つきでそう答える以上、同じまさかを覚えたのに違いない。


「赤茄子じゃないね」


 冗談を言うのなら、臭いを嗅ぐにも茶目っ気を見せるものだ。

 しかし責めはしない。彼は奥歯を鳴らし、行く手の闇を見つめた。


 と何を思ったか、高く声を張り上げた。腕を触れ合わせていた春海チュンハイは、慌てて耳に指を突っ込む。


 ある種おどろおどろしくもあり、どこか物哀しい声。野生の遠吠えにそっくりだ。

 それから二十を数える間もあったか、軽やかな足音が聞こえた。


「来てくれてありがとう。さっそく頼む」


 久しい友人とまみえたように、彼は訪問者の肩を抱いた。

 紅蓮の炎の色をした、美しい毛並みの犬。その巨躯は破浪ポーランをも凌駕する。


「友達なの?」


 大きな黒い眼に、金の瞳孔が光る。撫でられる間も鋭い歯の見えぬ時はなかった。

 どうであれ春海チュンハイは犬を可愛いと思う。ましてこの赤犬は、遊ぼうと嬉しそうに思えた。

 ただそう感じることと、向こうがこちらを好いてくれるかに因果はない。


「うん、頼れる奴だよ。フォウって呼んでる」

「勇ましくていい名前」


 安んじた時間なら、フォウを撫でたいと願ったろう。それにはゆっくりと、互いを知る段取りが必要だ。


 話す間に破浪ポーランは、血糊付きの指を突き出した。それをフォウの長い舌が舐めとり、辺りを思慮深げな眼で見回す。

 低く、控えめな唸り声。こっちだ、と教えてくれるのが春海チュンハイにも分かる。


「行こう」


 破浪ポーランが踏み出せば、フォウの四肢が跳ねる。素より進もうとした方向に駆け始めた。


 美丈夫が赤犬を追い、さらにその後ろを追う。野原で暢気に、であれば楽しかろう。だが現実は、すぐに息を苦しくさす全力での疾走だった。


 しかも春海チュンハイの後へ、鉈を担いだ偉浪ウェイランが走る。

 重さをどこかへ忘れてきたのか。そう問いたくなる、宙を滑るような足運びで。


(罠は——)

 あまりの速さに、思考を続けるのも難しい。ただし朧に浮かべた懸念は、杞憂と知れた。


 迷う素振りを欠片も見せず、フォウは翔ぶ。

 単に追いかけっこで遊んでいるのでは、と疑うほどまっすぐに進み、突如として横跳びを挟む。


 続く破浪ポーランも同じ位置を避けて進んだ。

 春海チュンハイには他の地面と——いや問題が壁か天井かも分からないが、ともかく違いを見つけられなかった。


 そうして、どれくらいか。走りながら二度も意識を遠退かせた春海チュンハイに、正確な時間は知れない。

 およその感覚では、杭港ハンガンを往復するほども進んだ。


「どうした?」


 ぴたり、フォウの足が止まる。二歩、来た方向へ戻り、宙で鼻を利かす。

 また戻り、同じ位置でくるくると回り始めた。どうやらそこで、辿った臭いがなくなるらしい。


「分からなくなったんだな。助かった、ありがとう」


 赤犬の首を撫で上げ、破浪ポーランは干し肉を取り出した。もしもの時には三日ほども食い繋げる量を、フォウに差し出す。


 赤毛の友人は警戒の素振りもなく干し肉を咥え、僅か唸る。

 こちらこそ。と破浪ポーランも答え、フォウは走り去った。姿の見えなくなってから気づいたが、遠ざかる足音はまるで聞こえなかった。


結界破りジィジィファイ


 春海チュンハイが、いまだ見送るさなか。逸った風に、祝符を読み上げる声がした。破浪ポーランのだ。


 絹の生地が崩れ落ちるのと同時、すぐ先で白い煙が上がる。たった今、フォウが臭いを見失った地点を囲むように、円く。


小龍シャオロン……?」


 破浪ポーランを上回る偉丈夫が、蹲った格好で倒れていた。

 頭髪を全て剃り落とし、漬物石にも似た丸顔は彼に違いない。


 名を声に出したのは春海チュンハイだ。呼んだつもりはなく、これは本当に小龍シャオロンかと疑って。

 あの堂々とした、酔客などひと睨みで畏怖して逃げ出す双龍兄弟の片割れが、なぜ血の海に沈んでいるのかと。

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