第41話:心の変わり目
「ひっ!」
仰け反った拍子、押し潰れた声が漏れる。瞬間、唸る風音に切り裂かれたが。
目の前を小さな斧が飛び去った。誰か、時の流れを操りでもしたろうか、回転する様がはっきりと見えた。
(落ち――)
縄を放してはいけない。気づいた時、既に手の中の感触はなかった。
咄嗟に、意識を足へ向ける。だが踏ん張る方向は存在しなかった。落下し始めた己の背を、元へ戻す手段がなかった。
「
前方に
届かない。
眼を見開き、絶叫する彼の顔が、闇の向こうへ消えた。
途端、風が吹いた。ごう、と巻いて束ねた後ろ髪を前に飛ばす。
黒い靄に、落とし穴に嵌まりかけた景色が浮かぶ。襟を摘み、引き戻してもらった。
千の手に出遭い、凍えた。何がなにやら分からなかったが、抱いて運ばれたのは温かいと思った。
迷宮へ来てからの出来事を垣間見た。幾つもあったが、いちいちに言葉が出ない。
死ぬまでにひと言。発すべき言葉を、迷わなかった。
「ごめん」
ほぼ同時、背に激しい衝撃があった。ぐしゃと潰れる感覚も伝わった。
(死ぬって、こんな感じなのね)
何も見えない。暗い中、痛みも感じ——いや、痛い。
およそ背中の全体と、太腿の裏。
とは言えさほどのことはなかった。箪笥の角へ小指をぶつけた時を思えば、ないも同然の痛みだ。
「なんで俺の言うことを聞かねェ」
暗闇の先、ため息混じりの声がした。
目の前だ。まぶたを開くと、そこに
「え、あの……お父様、ごめんなさい」
何を叱られたか分からない。けれども迷宮で、この男の言い分が誤っているとも思えなかった。
謝罪にも関わらず、
「ふん」
鼻息一つ。良いも悪いもなく、地面に下ろされた。両足を着けてもらい、無事に、しっかりと。
「
すぐさま、
「怪我は!」
「ええと。ない、かな」
答えてから、腕と脚を動かしてみた。首と腰も回し、受け止められた痛みも消えかけたのをたしかめる。
ただ背負い袋が、がたと木の音をさせた。
「良かった……」
そっと、
細かな震えが伝わり、いつまでも止まらない。
「心配してくれたの?」
「当たり前だろ。きみみたいな——」
申しわけない気持ちが、
事実、
「私みたいな?」
「きみみたいな……ちょっと抜けた人は心配に決まってる」
(また言われた)
むっとした気持ちが目覚めかけた。けれども言われて当然と、すぐに萎れる。
頭を掻いた彼が背を向けたのも仕方がない。ずっと迷惑をかけてばかりだ。
「ごめんなさい。私、双龍兄弟を見つけたら、帰るわ」
「帰る?」
低い、怪訝な声。探るようにゆっくり振り返る
「ええ、皇都に」
「えっ? だってきみには使命が」
向こうを向いた偉丈夫が、またこちらを向く。くるくる回って可愛いと思うが、さすがに笑むことはできない。
「うん、何とかする」
当てはない。
(私の身を捧げるくらいしか出せる物もないけど。この人に死ねなんて、もう……)
無責任と言われても、そればかりは止められない。ゆえにもう一度、謝った。
「ごめんなさい」
「いやきみが謝ることなんて……」
まだ何か言いたげに、
言葉未満の声ばかりで、何も伝わらなかったが。
「おやおや、無事だったのかい」
頭上から、厭味が降る。
きっ、と鋭い目で見上げる
「ぬけぬけと。あんたたちが斧を投げたからだろ」
「はあん、何を証拠に? 調べてくれてもいいが、あたしらの持ち物は揃ってる。祝符以外はねえ」
張りが緩むと、もう一方を引っ張る。するとあれだけしっかりと支えた縄が、外れて落ちた。
「何だい、括ってあるのかい」
「
「そうだったかい?」
鎧姿の後ろへ隠れる素振りは、
「それも証拠がないと言うつもりか」
「なんだあ? おい
踏み出そうとする
年長とは真反対の大人と子供という体格差で、真下から威嚇の声を突き上げる。
「くれてやれ。後で護兵に言やァ済むこった」
現実的な対処を口にしながら、言葉の裏に「くだらねェ」と透けて見える。
「だそうだ」
「ハッ。別にこんな縄なんざ、欲しかないさ。暇潰しにからかってやっただけだよ」
長くうねった黒髪を、
紛れて、束ねた縄が投げつけられる。
「お前たち、どこまで潜るつもりだい」
鎧姿にしなだれる
こうまで悪意をあからさまな年長者を、
「あんたらに教えてやる必要が?」
「いやあ、お前たちは来ないと思ってたからさ。あたしらも、こんな階層でゆっくりやってたわけだよ。来たとなれば先を行かなきゃね、お前たちに宝を譲るつもりはないんだ」
蔑む
「来ないと思った?」
ひと呼吸。静かに放った彼の声が、鉄の硬さを纏う。
対する
「ひひっ」
「いひっ」
「——そうか、あんたらの仕業か」
何のことか、
「駄目よ。護兵に捕まってしまうんでしょ」
小さく、鋭い声で引き留める。すぐさま、強張った彼の腕から力が抜けた。ほっと息を吐き、斧から引き剥がした手を胸に抱える。
「あたしたちが? さて何のことかねえ」
「感謝してほしいけどね。やりようによっちゃ、足止めで済まなくもできたんだ」
とぼける夫と、挑発する妻。
(こんなことをして、何の得があるっていうの)
声に出さぬ問いには、誰も答えてくれない。
「
冷静に、彼の
「ありがと」
きっと聞こえない小さな声で、礼を言った。動悸が激しく、声を張ろうにも無理だった。
生まれてから、一番に胸が苦しかった。
「
後ろから、男の声。
すると残るは鎧姿の男。
「何だ、
「十三階層に行く」
「そうか、勝手に頑張ってくれ」
おそらく振り返ることなく、
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