第40話:独りの時間

 おそるおそる。這いつくばり、縁から下を覗く。

 何度見ても、底までの距離が定かでない。だが二階建ての屋根以上に高いことはたしかだ。


 カカカッ。と、耳もとでファンが口を鳴らした。

 危ういほどの姿勢でなかったが、ひやとする。そっと尻もちを突き、「驚かせないで」と小さな友人に非難を向けた。


「どうしたの?」


 いつも、春海チュンハイが呼ぶまで、髪に紛れて寝ているのに。

 問うても無論、返事はない。けれども差し出した指先へ絡みつき、腕を上っていった。するする、ぐるぐる、首と腕とを二度も回る。


「仲間の匂いでもするのかな」


 僅かながらに車輪の音をさせ、破浪ポーランも穴の縁へ立つ。悠々と腕組みでいるのが、何やら鼻につく。


 前に嫌われたろうに、懲りずに指を突き出した。ファンの口が元の三倍も開き、かぷりとやった。


「これはきみの躾け?」

「そんなわけないでしょ。もっとやれとは思ってるけど」


 やれやれ、と聞き取れる彼の鼻息がファンにかかる。びくっと怯んだ小蛇は、指を放した。


「仲間なんて、道中に幾らも居たはずよね。ずっとぐうたらしてるのに、こんなの初めて見たわ」

「へえ。そういえば、何か食べるのも見ないね」

「そうなの。たぶん小さな蟲でも捕まえてるとは思うけど」


 杭港ハンガンを訪れるまでも、ファンは物を食わなかった。ちょうど良さそうな蛙を捕まえてやったりもしたが、見向きもしない。

 そこは野生の矜持があるのだろうと、さほど気にしなかった。弱りでもするようなら別だが。


「おい」

「うん、俺が最後で」


 父親の急な呼びかけに、破浪ポーランはしっかりと頷いた。最後とは何の話か、理解の届かぬ春海チュンハイを前に、偉浪ウェイランが穴の縁から滑り落ちる。


「お父様!?」


 さっと半身を突き出し、肩を破浪ポーランにつかまれた。

 手を差し伸べる相手が違う。とは、思い込みとすぐに判明した。


 ぎゅっ、ぎゅっ、と。拍子良く、引き絞られた縄が鳴る。指の太さが二本、束ねて闇の底へ下りていた。

 辿ると、黒く頑丈そうな鈎が壁に打ち込まれている。今、ではなくずっとそこにある物と見えた。


 高いところから縄を伝って下りる。至極当然の発想に至らなかった理由は、もちろんあった。

 ここが、わけの分からない迷宮だからだ。


 不審に、目を凝らした。春海チュンハイの手と同じくらいの、金属製の引っ掛け鈎。およそ黒いと思えたのは、文字が書かれていたから。

 細かくて咄嗟に全てを読み解けないが、神への祈りに使う文字。どうか構わず、見逃してほしい。おそらくそんなことばかりが。


春海チュンハイ、きみの番だ」


 弛んだ縄を握った手が突き出された。

 受け取り、横目に穴を見下ろす。ごく、と大量に湧いた唾を飲み込んだ。


「高いところは苦手かい?」

「——全然」


 偽りでなかった。これまでは。

 僧院のてっぺんへ上った時も、いい景色と思うばかりだった。

 だが強がりを答えたと、自身がよく知っている。


 正直に言えば、何か対策をしてもらえたかもしれない。

(ううん、かもじゃない。必ず助けてくれるわ)

 強がったのはそのせい、という推測には自信がなかった。


 背負い袋の紐をたしかめ、万が一にファンを放り込む。

 その間に破浪ポーランは、縄の一本を春海チュンハイの腰へ。素早い手の動きもあり、どう結んだのやら。


「もし落ちても、下に叩きつけられることはないよ」


 長さを合わせてあると言われても、既に宙吊りのような心持ちは落ち着かなかった。

 努めて硬く、「そう」と。慎重に縄へ体重を移していく。両手で縄を持ち、足を穴の縁へ引っ掛ける。下の階層まで、床は半身ほどの厚さしかない。


 少しずつ、下方向に足をずらす。指を噛むファンの顎のほうが、大胆に開いていた。

 進まない足運びを見るのがつらく、目を閉じたい。けれども歯を食いしばり、必死に動かした。


(いよいよぶら下がるしかないわ)

 息を止めた。何にも寄与しないと分かっていても、せずにはいられなかった。

 しかしおかげで、縄に体重の全てを預けられた。


 うっかり手を離さぬよう、六階層の床を目指す。そこに偉浪ウェイランの姿はないが、ひと息吐くことはできる。

 ゆっくり、視界に六階層の通路が広がっていった。つま先をいくら伸ばしても、まだまだ届かない。


 風などないにも関わらず、時に縄が揺れた。きっ、と上を睨みつければ、破浪ポーランが両手で縄をつかんでくれていた。

 おそらく春海チュンハイが、緊張で自身にも予想外の動きをしたのだろう。


 彼から目を逸らし、下をも見ない。すると前にしか向けなかった。

 六階層の通路は、視界の限度までまっすぐ伸びる。


(今あそこから魔物が来たら……)

 黒い靄のような闇は動かない。妄想の中でだけ、百足や大蜥蜴が何度も這いずって出る。


(私、怖いんだ)

 誰かに囁かれたかのごとく、ふと気づいた。凍えたように震える息、高鳴る胸の鼓動。

 恐ろしいのは、高さでなかった。けれどもきっと、見えぬ魔物の姿でもない。


 手の届くところへ、春海チュンハイは居ない。何が起きたとして、破浪ポーランが抱えてくれるには幾ばくかの時間がかかる。偉浪ウェイランもだ。

 すぐそこへ二人が居ると分かっていても、独りで在ることが怖かった。


「気ィつけろ」

「え?」


 何か聞こえた。いや、間違いなく。しかし何と言ったか、誰が言ったか、低く小さな声で定かでない。

 そっと、見上げてみる。

 己の背後はいいのか。そう心配したくなるほど、乗り出した破浪ポーランの顔がよく見えた。


「大丈夫。慌てないで、ゆっくり」

「わ、分かってる」


 優しい声だ。乱れた息が、少し楽になった。頷いて見せ、足下へ視線を戻す。


「ん?」


 もうすぐつま先の届く六階層の闇。少し先の靄で、何かが動いた。

 今度は妄想でない。見知った三人の人影が、のそのそと出てくる。


「へっ」


 にやり。先頭の黒蔡ヘイツァイが笑った。

 厭らしい。そう感じるのと同時、彼の男の手が上がった。


 風が鳴る。黒蔡ヘイツァイの後ろで、連れの鎧姿が何かを放った。鈍く銀色に光るそれは、まっすぐ春海チュンハイへと。

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