第40話:独りの時間
おそるおそる。這いつくばり、縁から下を覗く。
何度見ても、底までの距離が定かでない。だが二階建ての屋根以上に高いことはたしかだ。
カカカッ。と、耳もとで
危ういほどの姿勢でなかったが、ひやとする。そっと尻もちを突き、「驚かせないで」と小さな友人に非難を向けた。
「どうしたの?」
いつも、
問うても無論、返事はない。けれども差し出した指先へ絡みつき、腕を上っていった。するする、ぐるぐる、首と腕とを二度も回る。
「仲間の匂いでもするのかな」
僅かながらに車輪の音をさせ、
前に嫌われたろうに、懲りずに指を突き出した。
「これはきみの躾け?」
「そんなわけないでしょ。もっとやれとは思ってるけど」
やれやれ、と聞き取れる彼の鼻息が
「仲間なんて、道中に幾らも居たはずよね。ずっとぐうたらしてるのに、こんなの初めて見たわ」
「へえ。そういえば、何か食べるのも見ないね」
「そうなの。たぶん小さな蟲でも捕まえてるとは思うけど」
そこは野生の矜持があるのだろうと、さほど気にしなかった。弱りでもするようなら別だが。
「おい」
「うん、俺が最後で」
父親の急な呼びかけに、
「お父様!?」
さっと半身を突き出し、肩を
手を差し伸べる相手が違う。とは、思い込みとすぐに判明した。
ぎゅっ、ぎゅっ、と。拍子良く、引き絞られた縄が鳴る。指の太さが二本、束ねて闇の底へ下りていた。
辿ると、黒く頑丈そうな鈎が壁に打ち込まれている。今、ではなくずっとそこにある物と見えた。
高いところから縄を伝って下りる。至極当然の発想に至らなかった理由は、もちろんあった。
ここが、わけの分からない迷宮だからだ。
不審に、目を凝らした。
細かくて咄嗟に全てを読み解けないが、神への祈りに使う文字。どうか構わず、見逃してほしい。おそらくそんなことばかりが。
「
弛んだ縄を握った手が突き出された。
受け取り、横目に穴を見下ろす。ごく、と大量に湧いた唾を飲み込んだ。
「高いところは苦手かい?」
「——全然」
偽りでなかった。これまでは。
僧院のてっぺんへ上った時も、いい景色と思うばかりだった。
だが強がりを答えたと、自身がよく知っている。
正直に言えば、何か対策をしてもらえたかもしれない。
(ううん、かもじゃない。必ず助けてくれるわ)
強がったのはそのせい、という推測には自信がなかった。
背負い袋の紐をたしかめ、万が一に
その間に
「もし落ちても、下に叩きつけられることはないよ」
長さを合わせてあると言われても、既に宙吊りのような心持ちは落ち着かなかった。
努めて硬く、「そう」と。慎重に縄へ体重を移していく。両手で縄を持ち、足を穴の縁へ引っ掛ける。下の階層まで、床は半身ほどの厚さしかない。
少しずつ、下方向に足をずらす。指を噛む
進まない足運びを見るのがつらく、目を閉じたい。けれども歯を食いしばり、必死に動かした。
(いよいよぶら下がるしかないわ)
息を止めた。何にも寄与しないと分かっていても、せずにはいられなかった。
しかしおかげで、縄に体重の全てを預けられた。
うっかり手を離さぬよう、六階層の床を目指す。そこに
ゆっくり、視界に六階層の通路が広がっていった。つま先をいくら伸ばしても、まだまだ届かない。
風などないにも関わらず、時に縄が揺れた。きっ、と上を睨みつければ、
おそらく
彼から目を逸らし、下をも見ない。すると前にしか向けなかった。
六階層の通路は、視界の限度までまっすぐ伸びる。
(今あそこから魔物が来たら……)
黒い靄のような闇は動かない。妄想の中でだけ、百足や大蜥蜴が何度も這いずって出る。
(私、怖いんだ)
誰かに囁かれたかのごとく、ふと気づいた。凍えたように震える息、高鳴る胸の鼓動。
恐ろしいのは、高さでなかった。けれどもきっと、見えぬ魔物の姿でもない。
手の届くところへ、
すぐそこへ二人が居ると分かっていても、独りで在ることが怖かった。
「気ィつけろ」
「え?」
何か聞こえた。いや、間違いなく。しかし何と言ったか、誰が言ったか、低く小さな声で定かでない。
そっと、見上げてみる。
己の背後はいいのか。そう心配したくなるほど、乗り出した
「大丈夫。慌てないで、ゆっくり」
「わ、分かってる」
優しい声だ。乱れた息が、少し楽になった。頷いて見せ、足下へ視線を戻す。
「ん?」
もうすぐつま先の届く六階層の闇。少し先の靄で、何かが動いた。
今度は妄想でない。見知った三人の人影が、のそのそと出てくる。
「へっ」
にやり。先頭の
厭らしい。そう感じるのと同時、彼の男の手が上がった。
風が鳴る。
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