第37話:奪う者と奪われる者
「父さん、少し休んでから——」
百足の全滅を見届け、
するとそのまま、奥へ進もうとした。
涙の止まらぬ
しかし聞こえたはずだが、
舌打ちをするでもなく、何ごともなかったように。
「大丈夫、うっかり堰を崩してしまっただけ。少しの間、見てみぬふりをしてくれれば、しっかりと積み直しておくわ」
戯れに揺らした水鉢の中のように。細かな波が隙間なく、
ぎゅっと喉に力を篭めておけば、嗚咽も表に出ぬほど弱いものだ。
だのに涙だけが、渇いた時を知らぬように流れ続けた。
触れればきっと、漣が大きくなる。そう思い込み、自然に収まるのを待つことにした。
「じゃあ、行こう。ゆっくりでいいから」
眉間に皺を寄せながらも、
しかし首を横へ振り、握り返すことはしなかった。
(この命を奪ったのは、私の罪だもの。分けて持ってもらおうなんて思わないわ)
ほんの一瞬、断られた手を彼は見つめた。しかしすぐに階段を下り始め、「行こう」ともう一度言ってくれた。
折り重なる百足の死骸を、踏み越えてしか進めない。大きさを除けば、頭部も当たり前の百足になっていた。
もう、謝ることはやめた。声にだけでなく、胸の内でも。
「黄金蟲もか。助かるよ」
先を行く
独り言のようであり。
その通り、黄金蟲の息絶えた姿も夥しい。人の顔を持たない黄金蟲に、浄霊は効かぬはずだが。
おそらく百足の、断末魔の舞踏によるのだろう。一本ずつが鋭い短剣のような彼らの脚と、鉄柱さえ圧し折りそうな絡みつきに。
「あ——」
何かの言葉の端切れが、唇よりも先へ漏れた。けれど続けられそうもなく、口を閉じた。
黄金蟲に対しては、素直に良かったと言えそうな気がした。
非道な人間の、証左と思えた。
それからしばらく。ただ歩くだけの、からくり人形に徹した。
先回と同じ道すじ。避ける箇所の違う罠。
あの時斃れていた誰かの姿は、もうなかった。流れた血の跡も、鎧の欠片も、誰かが掃き清めたかのごとく。
両手を合わせたかったが、できなかった。
(今の私に、そんな資格が?)
と、答えの見えなかったために。
「休憩はしたし、一気に行こう」
「あァ」
三階層へ下りる階段。定位置という三叉路で、父子は止まらなかった。
あれだけの蟲を殺したのだ、二階層では何とも争っていない。順調が過ぎるほどの短時間で、ここまで至っている。
同意は求められなかった。ちら、と
「千の手に遭うとしたら、この階層からかな」
という予測のもと、双龍兄弟の痕跡を捜すと
とは言え、先回と様子は変わらない。独特の歩法で先頭を行く
(どうやって捜すのかな)
まだほとんど知らぬも同然の
感覚的には、庭へ放り投げた米粒を一つ見つけろと言われるほうが容易と思う。
選ぶ道も、前と異なった。父子はこれで食ってきたのだから、何を言うべきでもないはずだが。
それにもう一つ。もしも双龍兄弟を、無事に見つけられれば。必ずしも、死を商売にしているとは言えない——のではないか。
「鉄塊だ」
三階層を歩いて、どれくらいが経ったろう。半日くらいに思うが、もはや時間の感覚はないも同然となった。
部屋と言って、扉があるではない。他と違い、長く伸びても広くもない、およそ囲われたこぢんまりとした空間のことだ。
入り口となる通路は分かりにくく、部屋に入れば天井から、大小さまざまの袋が一つぶら下がっている。
「うん」
当然の風に答え、
なぜ、木の根で編んだような袋があるか。
なぜ、そんな物に鉄塊や水晶の欠片が入っているか。
なぜ、双龍兄弟を捜すのでなく、そんな場所を回るのか。
当分は口を利く気になれなかったが、こうまで分からぬことだらけでは、そうも言っていられなくなった。
「ねえ。その袋、何?」
「宝袋だよ」
当然だろと言いたげに、
「宝って、誰かがここへ隠したの? この部屋は何?」
「ああ、そうか。ここは宝部屋だよ。必ずってわけじゃないけど、宝袋がよく生まれる」
「生まれる?」
問うて答えを得たはずなのに、疑問が増える。不可解な会話が、
「ごめんなさい。小さな子に、初めて読み書きを教えるくらいに言ってもらえる?」
「あっ、そうだね。ええと」
棺桶の蓋を閉じ、部屋を出る父親に続きつつ、
自分には当たり前のことを改めて、は意外と難しいものだ。伝わって良かった、と頷いて見せた。
「宝袋は、迷宮の食った物が吐き出された物だよ。土の中の鉱物とか、その階層で死んだ探索者の持ち物とか」
「……ええ?」
何か聞き違えたろうか。迷宮に棲む魔物が、ではなく迷宮そのものが飲食をするように聞こえた。
「ええと、どう言えばいいかな。たとえば俺が、ここで魔物に殺されて、誰も連れ帰ってくれなかった。そうすると、俺の身体も武器も、迷宮に呑み込まれるんだよ。それから何日か経つと、宝袋になってぶら下がる。ああ、屍が入ってたことはないよ」
誰かに脳天を木槌で打たれた心地がした。くらくらと、目まいまでがする。
「あの、確認させて。誰か、人間でも魔物でもなく、迷宮そのものが。この硬い、岩の塊みたいなのが、屍や持ち物を呑み込むって言ったの?」
順列を守らねばならないと分かっていても、今この時だけは歯痒かった。何でもないように話す後ろの阿呆に、きっと酷く困惑した顔を見せてやりたいのに。
「そうだよ」
ぴしゃり。肯定の返答に、
尋常でなく、嫌な汗が溢れていた。
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