第36話:生者に非ず
「祝符の作り方、知ってる?」
小袋の祝符を十枚。全て取り出し、地面に並べた。
もう笑い屋の声は聞こえなかった。助けられることもあると言うが、危難が一つ去ったように感じた。
「いや、僧が自分の血を使うってことしか」
「ええ、そう。ただ墨で書いたって、布に神通力を移すなんてできない」
祝符の裏には、術を使うための祈りがびっしりと綴られている。表にはその術の名だけが。
どちらも薄墨に似た黒い文字だが、そうではない。
「術を移す僧の血と、十分に清めたお神酒。混ぜ合わせた桶に、十日も浸すの」
「筆で書くだけじゃなく?」
頷いて答え、祝符の一枚を取った。術の名は
どれを選ぶべきか悩み、しかしこれしかないと。
「それは屍鬼にしか意味がないだろ? 冥土に帰すって」
首を傾げる
「あなたたちは、百足を蟲と言うわね。あんな人間の顔を持つ相手を」
「だね。最初は俺も、人間の魂が憑いてるかと思ったよ。でも浄霊の術を使うところを見たけど、平然としてた」
だろうとは思った。だから納得がいかなくとも、そういうものと呑み込むつもりだった。
「硬くなった福饅頭を見てね、この皮なら祝符も作れそうだと思ったの」
浄霊の祝符とは違う手に、ひと口を噛じった福饅頭を示す。
これだけで意図の通じるはずもなく、
「う、うん」
「でもここには、お神酒も浸す桶もない。あれだけの数を蹴散らすような術を、私自身は使えない。だからこれは、駄目で元々よ」
きっと意味がないだろう、と諦めれば結果が得られない。しかしやってみれば、
一つはこのまま、やはり待つしかないと諦めること。
もう一つはあの百足が、たまたま人間の顔をした蟲か、それとも——。
「思いつきでやってみるけど、そういうことだから。おかしくなったなんて思わないでね」
「え?」
わけが分からないと戸惑う
しかし事前に言うべき最低限は言った。もたもたすれば、曖昧な決心が揺らぎそうだった。
深呼吸のように大きく息をし、二度目に吸うのと同時、福饅頭に齧りつく。
同じ年ごろの、毎日を畑仕事に追われずに済む、僧院へ親の遣いで来るような娘と比べれば。よく食うほうだと自覚があった。
それは武僧に交じって鍛錬をしていたからで、その武僧の食欲とは比較にならない。つまり年ごろの女の中ではよく食う、という程度だ。
そんな
「う……ぅえっ」
「
三割ほども食ったところで、もう無理だと胃袋が訴え始めた。まばらに間を空け、福饅頭を押し出そうと突き上げてくる。
(そんなわけないでしょ)
腹が減ったのかと問う
「私の身体を桶にしてるの」
我慢ならずに釈明したが、後悔した。ふた口分を、
もたもたできない理由を、一つ加えねばならなかった。
(お腹の奴が油断してくれてるうちに、詰め込まなきゃ)
この口は入った物を噛み千切り、ある程度まで裁断するだけのもの。喉とは即ちただの穴で、物を落とせば通らぬはずがない。
そう、己に暗示をかけた。僧の修行や神通力に、暗示という項目はないが。
「う……」
だが、食いきった。指一本の余計な身動き、無駄な言葉を一つ漏らすだけで、水の泡と帰しそうだった。
福饅頭を失った手で、口を押さえる。
自身の身体に刺激を与えぬよう、ゆっくり。口から腹へ、手を移動させた。
そっと、撫でる。赤子が居ればこんな風にするだろうと、優しく。
もう一方の手を、視線の前へ。そこにある文字は浄霊だが、まず口にすべき言葉は別にあった。
『血から血へ、道を開く。そこへ私が在るように、神力を置く』
と、発したのは神へ祈る言葉。
「浄霊」
今度は普段の言葉だ。手にした祝符に宿る、誰かの籠めた神通力を解放する。
向けた先は、
(お神酒を使うのは、生き血の量を補うためだもの)
祝符にしようとする物を術者と一体化させるのなら。唾液と織り交ぜ、飲み込む以上があろうか。
とは無茶な理屈であって、
このふざけた術の行使を父が知れば、神への冒涜と怒り狂うに違いない。
(でもね、そういうことじゃない気がするの)
術を成就させるより、双龍兄弟の顔ばかりが思い浮かぶ。
早く。
速く。
ここで一歩遅れることが、彼らの命を縮めるように感じる。
「
引き起こしてくれと手を伸ばす。
果たして、腹の中がどうなったか
腕を引き、背を支え、彼は優しく立たせてくれる。
階段を指さすと、手を引かれた。ゆっくり、急いで、おそらく最適の速度で。
「ここで?」
「うん。お願い、見ないで」
もう限界だった。喉から溢れる濁った音で、
事実、彼は「えっ」とひと言。案ずる表情で見つめ続ける。
「うっ——うえぇぇぇぇ」
何をも言えなかった。食った福饅頭と、その前のあれやこれや。残らず階段へぶち撒ける。
蟲を押し留める見えない何かがどうかと心配したが、至って普通に吐瀉物は降り注いだ。
「うえっ、うえぇぇ」
己の醜い所業に、嗚咽が止まらなかった。
もし想像したまま浄霊の術が百足に効けば、自分は何をしたことになるのかと思う。
見た目に、彼ら彼女らは生きている。
その意志を無視し、虐殺したことにならないか。
吐瀉物に混じって落ちる涙は、そちらによるものだ。
「
言われるまでもない。何が起きても、見届けるつもりだった。
百足は
次から次、見える限りの百足が順繰りに吐瀉物を飲み込んだ。
暗い夜の海にも見える階下が、嵐の海へと変貌する。うねり、もつれあい、あそこに居れば何者も無事では済むまい。
——やがて。
百足は倒れていった。
一匹、また一匹。重なり合って、音もなく。静かに命の痕跡を消していく。
「ごめんなさい……近いうち、冥土で会ったら。おとなしく喰われるわ」
何を言おうとも意識になかった。自然、
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