第35話:足止め
くすくす。
けたけたけた。
老若男女、様々の笑声が降ってくる。笑い屋というらしい、このふざけた存在を手で振り払った。
もちろん甲斐はなかったが。
「これ、何……」
どうやら蟲たちは、階段を上ってまで来ないらしい。慎重に近寄り、階下を覗く。
見えたのは、海だ。
黒く光る百足の背が、艶めかしく蠢いた。一分の隙もなく地面を覆いつくし、片時も止まらず波打つ。
赤い脚が小魚のようでもあったが、可愛らしさより不気味さを演出した。
合間に金色が見えるのは何だろう。よく見ようと、僅かに首を伸ばす。と、百足の数匹が階段に巻き付き、
迫る大顎の勢いに、仰け反った。が、しかし階段の中ほど辺りへ見えない手があるように、百足の前進がぴたと止まった。
さらにずるずると、横滑りに階段から落下した。
またその背を踏み、百足の海から金色が飛び出す。
黄金蟲だ。やはり同じく階段の途中、跳ねたところで不自然に止まる。そして同じく横方向へ、背中から落ちていった。
人間の顔と、百足の胴と、黄金蟲。渾然一体が階段に取り付いては、ずり落ちる。
人の世にある光景とは思えなかった。冥土の奥底、生前の罪を償う者の姿を見せられるような気がした。
「何って——」
尻切れに、
だが
その口で蟲たちを噛み潰すとはいかない。
ひとしきりの沈黙を、三人が分け合った。
一匹や二匹、父子には余裕の相手だ。しかしこれほどの数、どうにかなるかと問うまでもない。
試みに三十までは数えたが、それでもきっと半分にも足りなかった。
「俺も知らねェ」
「しかし行商が、怪しげな香料を売ってるのを見たことはある」
「香料……あっ」
地上では酒浸りの
「どうしたの」
「魔物の好む臭いだかを発する香料だよ。おびき寄せられるって」
「そんな物、危ないだけじゃない。ましてこんな場所で」
どうであれ、売れば儲けではある。商人とはそういうものだ。
買う側が、いちいち乗ってやる義務はない。それなのに
「使い方によるかと思ったんだ。でも猫にマタタビみたいな感じで、酷い興奮状態になるって聞いた。きみの言う通り、危ないだけの代物だったよ」
「あなたが大馬鹿でなくて良かったわ」
出された手を頼り、立ち上がる。皮肉にも彼は首肯し、繰り返しに落ちていく蟲へ視線を向けた。
「上手が居たらしいけどね」
「冗談にもならないわ。こんなの、どうもできないでしょう?」
この状況を作り出した者は何を目的にし、当人はどうなったのだろう。
寄ってたかって喰い殺される場面しか思い浮かばず、
「どうも――」
ここを進む以外の道はない。行かねば双龍兄弟の発見が遅れる。
「父さん、何かあるかな」
「ねェな。散るまで待つだけだ」
その場にあぐらで、
(そんな場合じゃあ)
と思うものの、入り口から幾ばくかが過ぎた。既に地上も真っ暗だろう、とりあえず夕食を済ませても、時間の無駄にはなるまい。
階段からは距離を取った。
「ねえ、一階層でもやるの?」
周囲をぐるりと、
魔物から姿を見えなくする空虚の術だ。この親子を怖れ、魔物など姿も見ないというのに。
「まあね。油断は危ないよ」
祝符を取り出し、「空虚」と。読み上げる声が聞こえ、彼の手にあった絹は崩れ去る。
魔物でない
「駄目か。大して変わらない」
「何が?」
「こいつらはさ、何も俺たちを目がけたわけじゃない。何でもいいから襲いたいって時、近くに居たってだけだ」
そうね、と頷く。つまり彼は、こう言いたいのだ。
階が違えど、ここに人間が居るから蟲たちも留まる。空虚の術で居なくなったと思えば、立ち去るのでは。
「減らないのね」
「まあ多少、落ち着いたかなとは思う」
人の顔を持った百足。窮地にあるかもしれない双龍兄弟。
気持ちをざわめかすことばかりで、食欲などあったものでない。
手にした福饅頭も冷たく、表面が木の皮のごとく硬い。店で買う時、蒸し籠から取り出されたのは綿のようなのに。
(足手まといにはならないわ)
今は腹拵えをする時だ。するべきことを、然るべき時にしない。それは僧院でも、怠惰だと教わった。
無理やりに口へ押し込み、唾液と皮を混ぜ合わせる。
(祝符か——)
ふと、思った。祝符の作り方をだ。
「ねえ。どうにかできるかも」
父親から福饅頭の半分を受け取り、
「えっ、どうやって?」
口の中を飲み込み、駆け足気味に問う。顔に驚きは満ちているが、疑いは見えない。
これが期待の表れなら、答えてやりたかった。ただ、気が進まなかった。
とても、とてもだ。
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