第34話:気配を察する

 祝符を買い、先に行った偉浪ウェイランを追う。

 少し空の翳り始めた頃合い、口を開けた洞窟の前に、どっかり座り込むのが見えた。


 脇に金魚ジンユも立つ。まだ必要のない灯籠を提げた彼女と、何を話すのか。

 表情まではっきり読み取れる距離になると、偉浪ウェイランは立ち上がった。


「冥土の入り口へ、よくお越しになられました。二度と地上へ戻れぬ覚悟はおありでしょうか?」


 向かい合い、目を合わせた金魚ジンユは薄く笑う。


「あの、それ。誰かが通るたびに必ず?」

「ええ。後悔をしてほしくありませんから」


 おそらく前に聞いたのと、全く同じ。

黒蔡ヘイツァイ一家なんて、いちいち不吉なことをとでも怒りそうだけど)

 と思ったが、口にするのは憚った。

 金魚ジンユなりの、そうせねばならない理由があるのだろう。儚げな彼女の有り様が、図々しく問う気にさせなかった。


「あなた、髪を」


 言われて、はっとした。髪を飾ってはどうかと、薄青の紗を貰ったのに忘れていた。

 今は皇都での日常と同じく、束に纏めた根元を幅広の麻布で結んでいる。咄嗟に手で隠そうとしたが、間に合うわけもない。


「あの、なんだか――」

「いいのよ。あなたに似合うと思ったから、見られなくて残念だっただけ」


 そう言う金魚ジンユは、纏め髪を薄い朱の紗で覆った。

 たった今、結ったばかりのように。先回見たのと寸分違わぬ、と思わせる繊細さで。


春海チュンハイ


 破浪ポーランが呼んでいる。さっと拝礼を示し、背を向けた。急いだために、なおざりに見えたかもしれない。


(今度、髪の纏め方を教えてもらおう)

 天道の下から、洞窟の口へ飛び込む。慣れれば仄明るい迷宮も、直ちには暗黒に思えた。


「何?」


 立ち止まればすぐに、落書きも読めるようになる。

 目の前には見下ろす破浪ポーラン、十歩先に足を滑らす偉浪ウェイラン。問題はなさそうだ。


「確認だけど、春海チュンハイも来るんだね?」

「もちろんよ。あなたから目を離すわけにいかないし、双龍兄弟を放ってもおけないし」


 こんな間際で? と首を傾げる。しかし破浪ポーランの目は真剣だった。ちょっとした確認や冗談などでは、到底ない。

 ほんの数拍、今ここに居る理由を考えた。


「足手まといを心配しているなら、当然と思うわ。今回は頑張ると言ったって、信用しきれないでしょうね。だけど迷宮がどんなとろか、少しは理解したつもり」


 だから信用しろ、と結局は言っている。

 あやふやな言葉になるのも当然だった。当然のように着いてきたことを、春海チュンハイ自身が自分に説明できない。


 唯一確実なのは破浪ポーランを監視するためだが、黙って逃げ出す男でないとも思う。

 きっとこの町の僧院で茶でも飲んでいれば、迷宮を出入りするたびに顔を見せてくれるはずだ。


「いや、それはいいんだ。父さんも俺も、死ぬ時は死ぬ。そうなると春海チュンハイもろともになるけど、きみには覚悟があると思う」


 話すうち、視界の端から偉浪ウェイランが消えかけた。

 歩きながらでも、意志の疎通はできる。進もうとした春海チュンハイの腕を、破浪ポーランが握って止めた。


「うん?」

「双龍兄弟は千の手を倒すと言ってた。となると二人を捜すのは、千の手を探すのと同じになる。それをきみが怖がらないかと思って」


 死ぬ覚悟を云々してから、単に怖い、怖くないと。何を言っているのだか、意味も意図も分からなかった。


(私が千の手を?)

 読み解くに、余計な部分を省けば、彼の言うのはそこだろう。

 怖れれば動きを鈍くするから。などでなく、春海チュンハイが怖れることそのものに、大丈夫かと言うのだ。


「もしかして、私を気遣ってくれてるの」

「もしかしないつもりだったけど。良くない?」

「良くないわけがないわ。変な人とは思うけど」


 発した言葉の通りに感じた。内訳の半分ほどは、面白いと解釈できる。残りの半分に特段の意識を向けることはしなかった。


 自然。くすと笑ってしまったのだから、負の気持ちでないのは明白だ。

 破浪ポーランも笑う。ただそれは、いいのかなと迷うような、苦い笑みだった。


 どちらからともなく、足を前に向ける。すぐに走って、偉浪ウェイランを追いかけた。

 ほんの二十歩。前を進んだ破浪ポーランが、すぐに最後尾へ下がる。


 やはり一階層には、魔物の姿が見えなかった。この父子と共に居る限り、いつもそうだろうと破浪ポーランは言う。


 屈強と見えるのには否定しない。しかし魔物たちは、どこで区別をつけるのか。

 持ち物、身体つき。それは参考程度で、人間の戦力を測るものさしには頼りない。


「たぶん音と臭いだね」


 問うとあっさり、答えがあった。


「武器、鎧、服、履き物。どんな持ち物も、素人と熟練じゃ音が違う。あと俺でも感じるのは、妙な緊張をしてる人は鉄錆みたいな臭いがする。血の臭いとは、また違ってね」


 魔物なら、もっと細かく区別できよう。

 素直に「分かった」と頷き、音を立てぬように。余計な緊張をせぬように心がけた。

 こうか、それともこうか。工夫するうち、ますますぎこちなくなったけれども。


「……妙だな」


 二階層へ下りた途端、ぼそり。偉浪ウェイランが呟いた。


「うん、なんだろう」


 一瞬遅れて、破浪ポーランも眉を寄せた。

 すんすんと鼻を鳴らす様に、春海チュンハイも真似てみた。が、何をも感じない。


「蟲がさ、感覚が鋭いんだ。だから襲ってくるかは別にして、気づかれたなってのはこっちにも分かる。なのに、今はそれがない」

「いつもはあるのね」


(それって、あなたたちも蟲並みってことじゃ?)

 とは、後で暇潰しに聞けば良い。


 いつもあるものがない、ないものがある。見知らぬ場所、危険な土地で、まず気をつけるべきはそういう異変だ。

 皇都で山へ入るのを仕事にする者が、たしか言っていた。


「うん。その代わりというか、ざわざわしてる。声とかじゃなくて」


 言われても、やはり感じ取れない。何となく言わんとするところは分かる気もした。

 だがここで止まっていても、迂回路はない。偉浪ウェイランは舌打ちを合図に、三階層へ進み始める。


「褌締め直せ」


 またぼそっと呟いたのが聞こえ、長褲ズボンの上から紐をたしかめた。

 すぐに気づき、裾を直すふりでごまかす。破浪ポーランに見られなかったかは、祈るしかない。


 その赤面も治まらぬうち、突如として蟲の気配が高まった。

 いや、気配と言っては生温い。春海チュンハイの耳にもはっきりと、硬い彼らの脚が迷宮の床を這いずる音を聞いた。


 二匹や三匹、どころか十匹でも利くまい。

 それでも最初は囁く程度だったのが、耳もとで板に砂をこすりつけたように聞こえる。

 さらに重ねて、厭らしい笑い声も。


「チッ。一旦上だ、走れ」


 ここまでは罠がなかったらしい。破浪ポーランを先頭に階段までを走り、一階層へ逃げ込む。

 上る途中、四方の通路から押し寄せる蟲の大群が見えた。

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