余聞
第32話:偉浪の獲物
十九年前の
古い街であったものの、銭持ちはよその都市へ移っていた。屋敷と呼べる建物は、みな廃墟と化した。
そのころの
皇都から遠い町に軍が派遣されることは稀で、自警団に対処できぬ悪党は野放しとなる。
その場合は土地の者が財を出しあったり、役人に訴えて認められれば幾ばくかの銭が出ることもあった。つまりは賞金を懸け、誰か対処をしてくれと募るのだ。
「あんた一人で? そりゃあ強いんだろうが、奴ら五十人からが居るんだ。できない相談だろうよ」
「許しをくれとは言ってねェ。俺が片付けてくるから、後で知らんぷりするなってんだよ」
剥き出しの腕は、話す相手の二倍も太かった。その腕の二倍も長い刀を背に担ぎ、あちこち生傷の絶えぬ顔、身体。
海賊と成り代わりに訪れた侠客と言って、疑う者も居まい。
賞金の支払い役と紹介された男が、よく逃げ出さなかったものだ。
若いのに、それだけでも見どころがある。と、
「俺が死んでも、お前らの損にならねェ。港に居座っちまった海賊をどうにかしなきゃ、おちおちと漁にも出られねェ。じゃあ、ぐだぐだと文句を言う筋もねェ」
違うか? と笑って見せた。
愛嬌を振り撒く趣味はない。笑むことで、時に声を荒らげる以上の圧を加えることもできる。
「あ、いや……その通り」
「分かって貰えてありがてェ。じゃあな」
既にあらましは聞いた。背を向け、礼としてちょっと手を上げて見せた。
浜へ向かう通りを、しかと動く二本の足で踏みしめる。土はそよ風にも煙の立つほど乾き、黄色が天道を眩しく撥ね返す。
夏は終わり、秋も半ばの頃合いだった。
「どこに港があんだよ」
毒づく視線の先、沖に帆船が見えた。泳ぎが得意ならば、易易と辿り着ける距離。
白く崩れた波が、長く走って浜を濡らす。木と竹で拵えた粗末な桟橋が八本、それぞれ三、四艘の小さな舟を抱えた。
魚醤の発酵壺へ身を隠し、しばらく様子を窺う。
漁師町のはしくれだけあり、舟守の小屋、漁具の倉、干物小屋などなど。門外漢の
「見回りも居ねェのか」
出歩く者はあるが、小便なりの用を済ませばすぐに引っ込む。巡回をして襲撃に備えようなどとは、まるで感じさせない。
しかし桟橋の端へ建つ、舟屋の入り口へだけは見張りが立った。
唯一、二階建てのあそこへ頭目は居るらしい。目星をつけ、夜を待つ。
海賊と聞けば恐ろしいが、さほど腕の立ちそうな者は見かけなかった。身体つきも賞金の話をした男のほうが、よほど引き締まっている。
海に出ようという剛の漁師が、海賊の一人に銀銭を支払った。
あんな漁師が二、三十人も集まるなら、勝てないケンカでないと思う。
「海賊の中でも、小銭稼ぎしかできねえ落ちこぼれだ」
独り、また毒づく。海賊へか町の者へか、定かでないことに自嘲した。
もし誰もがそうやって決起できるのなら、即ち仕事を失うこととなる、自身にだったかもしれない。
夜になると、笑ってもいられなかった。海辺の風は、凍えると言って大袈裟でない。北で倒した大鹿の毛皮を纏い、海賊たちの酒盛りを眺めた。
奴らは壊れた舟を崩し、大きな火を囲んだ。
一斉に集まるのは、二十人にも満たない。今のうちと、その場を離れようとした。
「おっ。お頭、そいつは夫人の分ですかい?」
「あれが夫人なんて上等なもんかよ」
「でもそうなんでしょうよ。お頭みたいな男に捕まって、あの女は幸せと思わなくちゃ」
よくも身勝手な理屈を思い込めるものだ。呆れつつ、お頭と呼ばれた男を睨む。熊と見紛う大男で、熊から剥いだような髭で顔の半分を覆った。
覚えようとしなくとも、特徴だらけの風体。
一つ意外だったのは、声が若かったこと。三十歳を目前の
お頭は食い物の入った器を片手に、舟屋へ戻っていく。
女が捕えられているのは想定済みだ。舟屋だけでなく、他の建物にもだろう。
だが、無事に救おうとは考えなかった。間違いなく枷を嵌められ、直ちには連れ出せない。海賊どもが危ういと思えば、この女の命が惜しくば――とやるだろう。
そんなものは端から諦めておくに限る。十人や二十人の女の命より、町から海賊を追い出すほうが優先に決まっていた。
闇に紛れ、舟屋から最も遠い建物を窺う。潮風に洗われた古い小屋だ、中を覗く穴はいくらでもあった。
女の泣き声を圧し固めたかの、くぐもった呻き。何度も何度も、規則的に繰り返される。
「そろそろ代われよ」
荒い息遣いで、気忙しい男の声。ごとごと、ぎしぎし。木の床の軋みがやかましい。
声、息遣い。暗闇に浮かぶ、人の身体の曲線。壁ぎわに、おそらく縄で繋がれた女が一人。海賊の男が二人、そこへ
小屋から離れ、小石混じりの砂を踏んで足音を立てた。通りすがりのように。
仲間と思って安心しているのか、気づきもしないのか、小屋の中に変化はなかった。
楽でいい、と鼻で笑う。
入り口の戸へ近づき、無造作に開いた。案の定、海賊たちは警戒を見せなかった。一人が顔を向けたものの、逆光の月明かりでこちらの風体が見えるはずもない。
だのに目先の快楽を貪ることに、その海賊は命を賭した。
背の長剣はそのまま、腰の短剣を引き抜く。最中でない男の首を切り落とし、最中の男の口へ背後から短剣を突き込む。
びしゃびしゃと、床を濡らす音が低く響く。短剣を手放し、女の口を塞いだ。
けれども思った通り、猿ぐつわが噛ませてあった。解く前に、女の耳へ囁く。
「騒ぐな、お前たちを助けに来た。まだ外へ出れば危ない、もう一度俺が来るまで、ここから出るな」
暗がりに、見開いた女の目が光る。一度では理解が追いつかぬらしく、ひたすらにもがく素振りを見せた。
両手両足を縛られてなお、どうしようというのか。
同じ文句を三度、ようやく女は力を抜く。
四度目でゆっくりと頷き、手を離してもじっと動かずにいる。血溜まりの熱気に噎せてはいたが。
「それでいい」
海賊どもに気づかれるまで、これを繰り返すことにした。
その通り、五つ目の建物までを静粛に片付ける。
六つ目の建物。十三人目を黙らせた時、這いつくばる十二人目が漁具の棚にしがみついた。
間に合わない。派手な音を立て、様々な道具が落ちてくる。終いに、棚そのものも。
悪いことに、そこへ囚われていた女も猿ぐつわがなかったらしい。海の向こうへまで届きそうな悲鳴を、息の続く限り絞り出す。
「なんだ、何ごとだ!」
「はしゃぎ過ぎるんじゃねえよ」
異変を察した者。馬鹿騒ぎの延長と捉える者。ともかく火を囲んでいた海賊たちが、さすがに様子見に腰を上げた。三人だ。
戸を開き、二人分の血溜まりに、息を切らした女が倒れているのを発見する。
「たっ——!」
大変だ、だろうか。建物を覗く海賊たちの背後へ、
裏の壁を破壊し、屋根に登っていたのだ。叫ぼうとした男を、長剣で切り捨てる。
「襲撃だ!」
別の男が叫ぶ。海賊の好む湾刀を抜いたが、もろとも叩き割った。
残る一人は、焚き火の仲間へと逃げ込む。
「チッ。どうも俺ァ、雑でいけねェ」
そう思うだろ、と振り返る。咳き込む女は懇願の目で首を横に振った。
「殺しゃしねェよ。俺はな」
この場に
無事に生き残れればいいな。と、胸の内で祈る真似事くらいが精々だった。
「ほら敵がここに居るぜ。かかってきな!」
高々と長剣を掲げ、
海賊の立場なら、もっとやる気を出せと注文をつけたはずだ。
おもむろに、舟屋へ向けて歩く。灯りの点いた二階から、誰かの見下ろす影が見えた。
その間にも、わらわらと海賊どもが集まる。十五、六人。沖の船で番をする者も居ようし、およそ全員に違いない。
「まあまあ。誰か散歩に付き合ってくれよ」
舟屋の入り口まで、三十歩ほど。立ち止まらず進むと、やはり罵声が飛んできた。
「ふざけてんじゃねえ!」
腕に覚えがあるのか、若さゆえか。一人の海賊がなかなかに鋭く、湾刀を振り下ろした。
だが刃の厚い長剣で、難なく弾き飛ばす。得物を失った若い海賊が、己の手を信じられない面持ちで眺める。
「死ぬぞ?」
と、驚愕の顔を胴体から刎ね飛ばした。
「う、うおおぉぉぉ!」
奮起した誰かが雄叫びを上げた。すると残る十数人が、一斉に包囲の輪を縮め始める。
今だ。
「こ、この野郎!」
声も震えた見張りに突っ込む。
水平に一本の線を引き、その通りに見張りの男を分割した。
このままでは、お頭のところへ踏み込ませてしまう。きっと海賊たちは慌てたはずだ。
あの見張りが役立たずなせいで、と。
ただし次の瞬間、見張りの評価は逆転したかもしれない。若しくは正体知れぬ襲撃者の迂闊に嘲笑った。
「殺っちまえ!」
桟橋の先端で、
逃げ場のないことにようやく気づいたか。おそらく、そう舐めきった海賊が押し寄せる。
狭い桟橋を、一列になって。
ひと振りで、四人の身体が八つに増えた。
まだ気づかれていない。来た道を全力で戻り、障害物を切り払う。
海賊たちは前にも後ろにも、横にも逃げ場を失い、ただ死んでいく。
一対一で向かい合い、彼らの湾刀は
「さて、お頭はどんな男か」
辺りに、誰の気配も感じなかった。囚われた女たちは固唾を呑んで見守っている、あるいはじっと目を瞑っているはずだ。
舟屋に踏み込んでも、それは同じ。速度を出すための細い胴を持つ舟が、入り込んだ海水に揺られる。
壁に沿い、無理やりに造りつけた階段を踏む。今さら隠密に、はない話だ。悲鳴のごとく軋ませ、ひと息に駆け上がった。
「——おい、お頭は?」
「窓から」
大の男が十人ほども寝ころべる板間。贅沢にも、四隅に
海側の壁ぎわに、筵が厚く敷かれている。絹と見える綿入れも、整然と畳んで。
舟屋の二階に、人の姿は一つだけだった。それも華奢な女で、どう見てもあの熊もどきではない。
「あんた、名前は」
まだ早い雪が、そこにだけ積もっているように見えた。白い生地の着物より、なお白い手と足。
同じく真白い顔は細く、切れ長の眼は蒼く光った。
おそらく、遠い西の土地から拐われたのだ。話には聞いたものの、目に見るのは初めてだった。
名を問うた理由は、
「
痩せた身体に、膨らんだ腹が目立つ。そっと、彼女の肩に大鹿の毛皮をかけてやった。
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