第31話:老母との関係

 中年男は銭持ちげな見た目に合って、鷹揚に話す。だが二人の名を告げるこの時だけ、早口に捲し立てた。

 と、夫人の目から大粒が零れる。それは一粒で収まらず、続けざまに。やがて滝となった。


 声を上げたかったのだろう。しかし夫人は自身の袖で口を押さえ、しかと破浪ポーランを見据え続けた。

 込み上げる嗚咽に頭と肩を揺らしても、望みを叶える屍運びから目を逸らさなかった。


 背をさするなり、水を飲ませるなり、何かしてやりたいと春海チュンハイは思う。

 だがそれらは夫人の脇に立つ女たちが、どれもやってくれた。


 自分は部外者だ、と衝動を抑える。すると今度は双龍兄弟の、岩石のような顔が脳裏をよぎった。

 あの二人が帰宅の予定を告げているとは、予想もしなかった。

 いや、それはいい。母親を大切にするのは当然で、褒めるべきことだ。


(でもそんな約束をして戻らないって)

 荒々しいが温かい、気のいい兄弟の豪快な笑い声。遠く霞んで、どこかから聞こえたように思う。


「あの二人が……?」


 たしかにあれから会っていない。自由気ままでいるものと思っていた。

 驚きを共有しようと見上げると、破浪ポーランは小さく首を横に振った。


「あの子たちをご存知なの?」


 涙に溶けかけた声が、玻璃ガラスの芯を残して問う。夫人の視線は春海チュンハイへ移っていた。


「え、ええ。双龍兄弟とは——」

「たまたまです。何度か組んで、迷宮へ入ったことが。だから人相なんかは教わらなくても大丈夫」


 答えようとした春海チュンハイの声に、破浪ポーランが覆いかぶさる。


「双龍?」


 夫人は怪訝に、少し首を傾げる。慌てて、中年男が割って入った。


「め、迷宮に入る者は、異名で呼ばれるものだそうですよ。なあ、お前にも何かあるんだろう?」

「まあ。俺のは格好良くないけど」


 そんな倣いがあるのは知らなかった。

 なぜ今その会話になったかも、まだ春海チュンハイは察していなかったが。


「階層を一つ降りるごとに、銀銭十枚。捜すのは二人だから、二倍になる」


 ぼそっと言い捨て、破浪ポーランは夫人に背を向けた。

 すぐさま歩き出す彼の手が、春海チュンハイの腕を強く引いた。「痛いわ」と苦情を申し立てても、束縛が解かれない。


「うっ、うちの子たちを——どうか!」


 背後で、椅子を蹴立てる音がした。続けざま、何か盛大に転倒させた音も。

 破浪ポーランは立ち止まらない。どうにか首を返すと、夫人が円卓を巻き込んで床に転がっていた。


 助けに行こうとしても、やはり腕を放してもらえない。

 中年男と若い女たちが、夫人を引き起こす。三人がかりでも、椅子へ座り直させるのに難儀していた。


 夫人に二本の足は揃っていたが、まるで言うことを聞いていなかった。


「俺も知らなかったけどね。たぶんあいつら、母親の前では良い子でいたんだと思うよ」

「ええ?」


 部屋からいくらも離れ、珍しくひそひそと破浪ポーランは言った。

 白、黒、金の大きな魚の泳ぐ池。春海チュンハイよりも大きな石灯籠。手入れの行き届いた中庭を横目に、彼は足を急がせる。


「おい、待て」


 理解の追いつかぬ中、呼び止める声がした。もうすぐ正面扉へ辿り着こうという時、中年男が手を伸ばして追ってくる。


「何か?」

「報酬は銀銭どころか、金銭でもいい。何が何でも、双龍兄弟を連れ戻せ」


 大きいと言え、一つの建物のあちらとこちら。それだけを走って追うのに、中年男は両膝へ手を突いて息を整える。

 言いたいことは聞き取れたが、振り返った破浪ポーランは、あからさまに顔をしかめた。


「金銭を? どうしてそんなに」


 春海チュンハイは目を見張った。

 金銭の一枚は、銀銭の百枚に当たる。安い飯屋なら、家族数人がひと月やふた月も食い続けられる額だ。


 それを何十枚も払う用意があると。双龍兄弟とどれだけの縁があるのか、尊いことと両手を合わせた。


「夫人の世話を任されている。あの兄弟は稼ぎの全てを私に預けているのでな、居なくなれば資金が途絶える」

「ええっ? じゃあもしものことがあったら——」


 夫人の今後について、重大な話だ。問うたのは破浪ポーランだが、春海チュンハイの悲鳴が先だった。


「いや。あと十年や二十年、ここに住んでもらうだけの銭は既に貰った。しかしできるだけ贅沢にさせてくれと言われている」


 だというのに、中年男は淡々と答えた。税の取り立てをする役人のごとく。


「じゃあ少なくとも、夫人が亡くなるまでの心配はないんだね?」

「当たり前だ。受けた仕事をぞんざいにはせん」


 今度は破浪ポーランが、ひと言ずつを重々しく、念を押して押すように問う。

 だが答えた言葉の割りに、中年男はなぜか鼻で笑う。


「そう、一応は信じるよ。それと報酬は、銀銭でいい」


 双龍兄弟の母親の、世話を託された人物。悪く思いたくはないが、どうも胡散臭い。破浪ポーランの背に隠れ、眉をひそめた。


 気づかれたはずもないが、目隠しの壁が動き、また腕をつかんだ。次の言葉を待たず、正面扉をさっさと出ていく。

 引き摺られた格好の春海チュンハイは、不満げに眉を怒らせた中年男と視線が合った。


「はっ。噂の通り、屍運びとは頭のおかしな輩らしい」


(何てことを)

 春海チュンハイを屍運びの徒党と考えたのだろう。睨みつつも嘲る笑みが、二人を送り出した。

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