第五幕:迷宮都市の日常

第27話:次へ征くため

 朝。

 胸の奥から、今にも破けそうな動悸に目覚めさせられた。


「はあっ」


 激しく、大きく、息を吐き出すことが堪えられなかった。それでも続く音を立てぬよう、両手で口を押さえる。


(魔物は——)

 辺りを窺い、木板の壁と天井を視界に認めた。薄暗くはあるものの、これから昇る天道の気配を感じた。

 そうだった。と安堵の息を、今度は思う存分に吐き出した。


 剥き出しの地面に筵を敷いた寝床。眠る以外のやることがなければ、むしろ広すぎる何もない空間。

 穏やかな波音が、他の何にも邪魔されることなく囁き続ける。もう地上に春海チュンハイしか存在しないと言われても信じられるほど。


破浪ポーラン?」


 本当に誰も居ないとしたら、大変な問題だった。あの屍運びを死なせる使命が、果たせなくなる。

 いや誰も居ないのなら、使命の意義も失われる。ならば果たさなくて良いのかもしれない。


(そんなの、どっちも嫌よ)

 あり得ぬ妄想だったが、春海チュンハイの手に委ねられた未来という意味では現実だ。

 受け入れられるのは、やはり破浪ポーランを死なす選択肢のみ。


 そのために。彼を逃さぬために、僧院での快適な寝起きを選ばなかった。

 が、どれだけ薄かろうと壁は壁だ。隣の部屋で何をしているか、そこへ居るのかも定かでない。


 耳をつけると偉浪ウェイランのいびきが微かに聞こえたが、息子の気配は感じられなかった。


(私を置いてどこかへ行くなんてね)

 置いてけぼりの対象が破浪ポーランの父でなく、自分であることに気づいていなかった。

 あり得ないと証明するため、薄い木戸を開いた。


「おっ、春海チュンハイじゃねえか。なんだこんなところで寝たのか」


 外へ出るなり、飛龍フェイロンの大声に晒された。すっかり目覚めたつもりだったが、改めて起こされた気分になった。


 まさか一晩を過ごした寝床が、崩れ落ちはしまいか。ふと冗談として思いつき、段々と冗談ではない気がしてくる。

 しばらくは仮宿として使わねばならないのだ。振り返ると破浪ポーラン親子のボロ小屋は、びくともしていなかった。


「波音が心地良くて、うっかり寝過ごしてしまったわ」


 平静を装い、向き直る。三、四十歩先の波打ち際に、飛龍フェイロン小龍シャオロンが並んで手を振った。

 対面するのは破浪ポーラン。吹きつける潮風に、斑な黒い着物がはためく。


「そいつは良かった。時化しけた時にゃ、直に波がかかるからな。気ぃつけろよ」

「……気をつけるわ」


 これほど海と近くして、どう気をつけるのか。

 見当もつかなかったが、春海チュンハイの意識になかったことだ。礼を言いつつ歩み寄り、対話に加わる。


「朝から何の悪巧み?」

「おっと、感づかれたか。内緒だぜ?」


 何を言っても、飛龍フェイロンは気安く応じてくれた。今も唇へ、立てた指を当てて見せる。

 今年で成人した春海チュンハイを、まだ子ども扱いしているとは察した。それにしたところで、やはり話して楽しいと思えた。


「千の手が三階層に出たって言ったろ? あの辺りでうろちょろしてる、素人どもに横取りされるのは惜しい。オレたちで先に食っちまおうってな」

「経験の浅い探索者に危険だから、露払いするって言ったの?」


 内緒話の体で、声を潜める素振りだけはあった。だがボロ小屋に住む誰の耳にも届いたろう。

 そもそも憚る内容でなく、憚る性格をしていそうにない。春海チュンハイの翻訳には「げははは」と豪快な笑声だけが返った。


「じゃあ今回は、五人で潜るのね」


 双龍兄弟の応援に、破浪ポーラン偉浪ウェイラン。となれば春海チュンハイも同行するつもりで言った。


 正直な気持ちは恐ろしく、どうにか計画を取りやめにしないかと勧めたい。けれどもやらねば、他の探索者にどれほどの被害が出ることか。

 それを春海チュンハイの我がままでやめろとは、言えるはずもない。


(町じゅうで一番に正しいのは、きっとこの二人だわ)

 まださほどに知ったとも言えぬ双龍兄弟を、誇りに思った。


「誰のことを言ってる? 潜る面子は四人だ」


 首をひねる飛龍フェイロンに、残念な気持ちはある。だが子ども扱いされているのを考慮すれば、当然とも言えた。

 ただし退くわけにはいかない。春海チュンハイの知らぬところで破浪ポーランに死なれては困る。


 いや迷宮内で死んだならそれで良いが、死んだこと・・・・・にされる可能性を潰しておかねば。


「あの、私。まだ迷宮のことを分かったなんて言えないけど、足手まといにだけはならないから。もしどうしても邪魔になったら、その場で見捨ててくれてもいいから」

「はあ?」


 ぱちりと、剃った頭を大きな手が打つ。ぐるぐる撫で回し、飛龍フェイロンは弟に助けを求めた。

 しかし小龍シャオロンも、首をひねるばかり。


 これでは足りない。使命のことは知らせず、春海チュンハイの覚悟を理解さすにはどうすれば良いか。せめても、二人の巨漢を睨みつけて考えた。


「——ああ。たぶん勘違いしてるかな」


 数拍の沈黙を破ったのは破浪ポーラン

(そうよ私の気持ちは生半じゃないわ)

 勘違いを正してくれと、幾度も頷いた。


春海チュンハイ。たぶんだけど、俺と父さんも行くと思ってるね? でも違う、双龍兄弟が誘ったのは、きみの知らない奴らさ」

「えっ?」


 破浪ポーランは行かない。そう言って置き去りにするつもりでは。使命を果たさんとする春海チュンハイには、そう思えた。

 しかし共に迷宮へ潜った春海チュンハイは、素直に早とちりを恥ずかしいと思う。


「でっ、でも。それならこんな朝から!」

「詳しい場所を聞いてただけだよ。ひと口に三階層ったって、えらく広いからな」


 これ以上にないくらいの説得力で、小龍シャオロンがにやり笑う。もはや「あ、そう……」と、小さく縮こまるしかできることがない。


春海チュンハイが来てくれりゃ、百人力だがな。今回は勘弁してくれ、偉浪ウェイランなしでやりてえんだ。でなきゃオレたちゃ、いつまでも上に——下に行けねえ」


 弟と同じ笑みで、ただし眼はじっと厳しく。飛龍フェイロンは拝礼で春海チュンハイに頼む。


「そ、そんなの。私がどうこう言うことじゃないわ。余計なことを言ってごめんなさいって、謝らないと」


 拝礼を返すと、春海チュンハイの腕が叩かれた。兄弟が左右から、ほんの軽く。それでもよろめく力加減で。


「勇敢な春海チュンハイ。この次に潜る時は、一緒に行こうや。戦うことに、男も女も関係ねえ。あんたみたいに、心の強いのが一等大事なんだよ」


 用件は既に終わったようだった。飛龍フェイロンが先に「じゃあまた今度」と背を向ける。

 まだ腕に触れていた小龍シャオロンも続き、「約束だ」と。


「あっ。昨夜の約束もね」


 十歩進んだ双龍兄弟は、春海チュンハイの声に揃って振り向いた。「もちろんだ」と拳を振り上げ、迷宮の方向へ去る。


「約束なんかしたっけ」

「ええ。二人のお母さんのね、お気に入りの福饅頭があるんですって。どこのお店か、教えてもらうの」


 そういえば破浪ポーランは、偉浪ウェイランへの土産を買いに行っていたかもしれない。

 昨夜、小龍シャオロンが懐へ抱えた包みを見つけたのだ。厳重に笹を巻いたそれは何かと、春海チュンハイは問うた。


「へえ? それは俺も聞いたことないな」

「じゃあ教えてもらったら、一緒に行きましょう」


 海の向こうへ顔を見せた天道が、早くもじりじりと肌を焼き始めた。

 もちろんそんなことに双龍兄弟は動じず、ゆったりと街並みに紛れて消えた。

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