第23話:生還

 次に目覚めた春海チュンハイの眼に、白い雲が映った。

 (私、天界へ?)

 己が死んだ。そう思っても、これという感情が直ちに起きなかった。


 息を吸い、吐くことがとても楽だと感じた。

 もう凍えていない。解放されたのなら、それは良かったと思う。あれ・・はもう二度と御免だ、と。


 誰も、いつかは死ぬ。死そのものを恐れる必要はない。

 父から聞いたのを思い出した。その通り、安らいだ心地がした。


 (あ——)

 だが、その義海イーハイに託された使命を果たせていない。

 どころか破浪ポーランに救われようとした。彼とほぼ同罪の偉浪ウェイランから、苦しみを取り除こうとした。


 褒められるところが一つもない。

 (馬鹿だなあ)

 笑って、胸が苦しくなった。春海チュンハイに能のないせいで、皇都が滅びる。

 父も母も、僧院の仲間たちも。ジンの全土に死が訪れる。


 (どうして私だけ)

 崇高な使命を、重く感じた。


「——い。おい春海チュンハイ!」


 蒼天に真白な雲。天上の静かな景色を誰か、男の怒声がぶち壊す。


「心配には及びません、もうしっかりと目覚めてらっしゃいます。まだ夢と現が区別できていないだけでしょう」


 高く澄んだ、女の声。春海チュンハイを挟み、男と女が話す。

 意識して、まばたきをした。狭かった視界に、高くそびえた岩の壁が入り込む。


破浪ポーラン?」

「分かるのか? もう大丈夫なんだ、目を覚ましてくれ」


 右手の側に、破浪ポーランが跪いた。ぐっと眉根を寄せ、睨みつけた春海チュンハイにわけの分からぬことを言う。


「ほら、戸惑っておいでですよ。空腹にはまず、薄い粥からでしょう?」

金魚ジンユ?」


 左手に紅の着物の艶やかな、すらとした女。膝を折った彼女が居て、空の抜けた場所。

 迷宮の入り口へ戻っていた。洞窟の正面からは外れた位置に、横たわっている。背中に布の感触があるのは、どうやら破浪ポーランの着物が敷かれた。


「どうなったの?」


 一つ気づくと、次々に多くのことが意識できるようになった。

 岩壁の狭間でありながら、そよ風の吹き続けること。無音には程遠く、広場の喧騒が色濃く届いていること。


 凍えていないのは勘違いでなかった。疲れた感覚はあるが、何か食えば戻る気がした。

 言うことを聞かなかった手に、命令を下す。覗きこむ破浪ポーランの肩へ、思う通りに触れられた。


「ありがとう」

「いや、その、俺じゃない。金魚ジンユが」


 さっ。と速い動作で、破浪ポーランは立ち上がった。背を向け、言いわけめいて答え、三歩遠ざかる。

 何があったか不明だが、少なくともここまで運んでくれたのだろうに。


 (私の感謝は受け取れないって言うの?)

 礼を言おうという相手に、腹が立った。しかし今まで彼に、他の誰にも感じたような苛とした感情と違う。

 味わったことのない、初めて出逢う気持ち。無理やりに似たものを探せば、悔しい。


 それが六、七割で、残りが悲しい。きゅっと胸が締めつけられ、破浪ポーランの裾へ手を伸ばしたいと思った。

 実際に伸ばしかけ、幼子のようだと気づいてやめた。


「千の手に遭われたのでしょう?」


 岩を伝う清水のごとく淑やかな声に、顔を向けた。目を合わせた金魚ジンユは、そっと口もとを綻ばせた。

 それが何だか、悪戯を見透かされたようで恥ずかしい。意地を張り、きゅっと口を結んだ。


「あれは良くありません。手招きされればたちどころに、冥土の奥底へ引き摺り込まれます」

「——そう。でも私、それはないと思うんだけど」


 名に見合う、たくさんの腕を見た。どれも垂れ下がり、揺れていた。

 それだけで、春海チュンハイを呼び寄せるような動作はなかったはずだ。


「そう思います。でも千の手がそこへ在ると、声に出したり指さしたり、覚えはありませんか?」

「それは、あります……」


 千の手とは知らなかった。だが覚えと言われれば、いくつも思い当たる。

 やはり、やらかしていたらしい。噤んだ口で奥歯を噛んだ。


「そんなことでとお思いでしょうが。千の手は、視線の合っただけでも繋ぎを作ります。生きた者には見えない、紐のような。あれは永遠に、その紐を手繰ってきます。いつでも、地の果てまでも」


 淡々と抑揚のない声が、千の手自身の語りかけと錯覚さす。

 唾を飲み、ぎゅっと目を瞑ってまた開ける。すると真上に、青い瞳がかぶさった。切れ長を細め、頷く。


「幸いに私が、紐の切り方を心得ておりますけれどね」

「じゃあ、あなたが紐を切ってくれたから?」


 寒さから逃れられた直接は、金魚ジンユによるようだ。彼女は構えた様子もなく、小さく頷く。


「差し出がましいことですが」


 金魚ジンユの、膝に揃えた手の一つを取った。もう一度お礼をと思い、寝ていては失礼と気づく。

 手を繋いだまま、上体を起こす。金魚ジンユも空いた手で、背を支えてくれた。


「本当にありがとう。何かお礼をしなくちゃ」

「お気遣いなく。あれは路傍の石のような物。つまずいて、なぜここにあるかと怒鳴っても虚しいだけ。自身を責める理由はありませんよ」


 路傍の。名もない花が揺れるように、金魚ジンユは笑む。笑った、とまで言えば言葉が強すぎる。

 冷たい手が、春海チュンハイの戻った体温を実感させた。


 こんな人が姉なら。にわかな妄想の中、春海チュンハイは彼女の懐に甘えていた。

 そうすればきっと金魚ジンユも喜んでくれる。なぜかそう思えてならなかった。


「さあさあ、お疲れでしょう。何か温かい物を食べて、よく休むが良いです。偉浪ウェイランがきっと、ご馳走してくれますとも」

偉浪ウェイラン?」


 そうか、居てくれたのか。というくらいに見回し、背中の側へ見つけた。

 あぐら座に斜交いで春海チュンハイを睨みつける。すぐ、あさっての方向に顔を背けたが。


「あっ、毒は」


 今まで思い出さなかった薄情はさておき、聞くまでもなく元気そうに見えた。


「問題ないようですよ」

「そう。良かった」


 事情を聞いたらしい金魚ジンユが、当人を眺めて頷く。

 と。何が気に入らないのか、偉浪ウェイランは荒く鼻息を噴いて立ち上がる。

 春海チュンハイの視線を避け、天道に沿って首を動かし、広場のほうへ向いた。


「先ィ行ってる」


 ぼそり。歩き去る背中が、不自然に傾いた。見れば左の足首へ、短い矢が刺さったままだ。


「あっ」


 引き留めようと声を発しかけた。しかし破浪ポーランが割り込み、「いいんだ」と手を振る。


「でも」

「あっちは義足なんだよ、毒は効かない。けど直すには職人のところへ行かないと」


 フッ、と作り笑い。それが春海チュンハイを恥ずかしく思わせた。

 (私、何も知らない)

 何ごとも、その時が来てから無知を悟っても遅い。とても多くのことを、知りたいと思った。

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