第四幕:仮初めの

第22話:代償

 寒かった。

 震える歯の根に、温もりが必要だった。

 だから抱えられたのが誰だろうと、そうしたのかもしれない。破浪ポーランの首へ鼻先を埋めた。


 三階層から二階層へ戻り、階段のすぐ先。そこでようやく、父子は足を止めた。

 息を切らした破浪ポーランが腰を下ろしても、しがみついたままでいた。


「父さん、怪我は?」

「——問題ねェ」


 偉浪ウェイランの声も切れ切れだった。一日かけて進んだ距離を、ひと息に走り抜けたのだ、無理もない。

 ただ破浪ポーランとまた違い、力んで呻く風でもある。


 (怪我をされたの……?)

 帰り道にも魔物と出遭った。春海チュンハイは目を閉じていて、相手の姿は分からないが。

 破浪ポーランは両手を塞いでいた。ゆえに偉浪ウェイランがあしらい、ほとんど相手をせずに切り抜けたはず。


 それを繰り返せば、いかに偉浪ウェイランでも傷の一つ二つは負うのだろう。

 酷くなければいい。そう願い、春海チュンハイは薄目を開けた。


 見えたのは迷宮の壁。どうやら真後ろらしいと当たりを付け、振り返るには十度の呼吸を必要とした。

 幼いころ、風邪をひいて高熱にうなされたことがある。遠い記憶のそれを、遥かに凌駕した。


春海チュンハイ、どうした。無理するな」


 もぞもぞと何度も腰をひねろうとして、破浪ポーランの腕に力が増す。

 動けない。観念して、頼ることにした。

 とは言え口を利くなと言われている。偉浪ウェイランを指さそうと、震える腕を持ち上げた。


「父さん? ああ、怪我を心配してくれてるのか。大丈夫、いつものことだよ」


 まだ、てんで見当違いの方向だった。だが彼は正確に察し、穏やかに教えてくれる。

 何を問うても平坦に答えてきた、あの破浪ポーランがだ。


 やはり自分の目でたしかめねばならない。力の篭め方を忘れたような半身に、反動をつけて回転さす。

 見覚えのある三叉路が、ぐるりと回る。黒犬たちの姿はなかった。


 偉浪ウェイランは定位置だ。両手両足を投げ出し、仰向けに横たわった。

 大きく開けた口が、荒々しく息を吐き出す。吸う量との調整が、明らかにうまくいっていない。


 (矢が……)

 左腕に矢羽根が見えた。通常の弓では放つことのできない、手のひらほどの短い物だ。

 それでも痛かろう。命中したのが二の腕なのは良かった、致命傷とはなりにくい。


 しかしそれなら、なぜ偉浪ウェイランは苦しんでいるか。朦朧とした意識の中、必死に考えた。

 結論は、あの矢に毒が塗られていた。


「……そうだよ。俺も父さんも、毒消しの祝符までは使えない。僧侶じゃないからね。でも迷宮を出れば、護兵の天幕に使える人が待機してる。父さんなら、それまで耐えるのなんていつものことさ」


 破浪ポーランの声から、感情が薄れる。いつもの口調で強い父親を称えても、説得力がなかった。

 もしもこのまま偉浪ウェイランが死ねば、彼は同じように嘯くのかもしれない。


 (駄目よそんなの)

 緩く縛る筋肉の拘束具を、押し退けようと手をかけた。

 だが。むしろ当然と言うべきかもしれないが、大樹のごとき腕は微動だにしない。


「大丈夫。心配してくれるのはありがたいけど、きみのほうが重症なんだ。自分でも分かってるだろ? 俺は今、雪の人形を抱えてる気分だよ」


 そこまでの自覚はなかった、ひたすら寒いというだけで。

 もはや感覚を失っているのだろう。破浪ポーランに手を押しつけるのさえ、目で見なければ触れている自信がない。


 (それでもよ。私は父上の娘だもの)

 自由にさせてくれないなら。偉浪ウェイランを見殺しにしろと言うのなら、もう構うものか。

 思いきり、離してと叫んだ。


 叫んだつもりだった。

 実際に漏れた音は、喘息でかすれた息遣いのごとく。数尺の距離にある破浪ポーランの耳にも、聞き取れたか怪しい。


 きっと自分のせいだと思った。千の手というらしい、あの魔物に関わろうとしたから。

 罠にかかることさえ勘定外に、二人は全力で逃走した。春海チュンハイが居なければ、破浪ポーラン偉浪ウェイランを抱えることもできたはずだ。


 (私のせいよ)

 血の気が引き、目の前が真っ暗になるほど暴れた。破浪ポーランには、仔猫を扱うより楽な仕事だったろうが。

 しかし、拘束から逃れることは叶わずとも、無意味ではなかった。


「……分かった。きみがそこまでしてくれようとは思わなかった。ひと言分だけ、無理をしてくれるかい?」


 平たい声に、全力で頷く。実際に首を動かした方向が、縦か横かも定かでないまま。

 腰の小袋に祝符を収めてある。破浪ポーランの手を誘導し、取り出させた。


 彼ももう、やめろとは言わない。すぐに小袋をまさぐり、祝符のうちの一枚を春海チュンハイの手に握らせた。

 立ち上がり、父親の下へ。向かいつつ、横抱きにされた。


 自分の手が垂れ下がっているか、所在も不明だ。頼まなくとも破浪ポーランは、祝符を読めるように胸へ乗せてくれた。

 あとは神々に語りかける、長い文言の最初。たったひと言を声にするだけでいい。


 (私のせいでお父様を死なせずに済むわ)

 良かった。ほっと安堵の息と共に、然るべき言葉を投げ出した。


解毒ジェドゥ


 ふうっと、偉浪ウェイランの姿が遠ざかる。迷宮の地面も、向こうの壁もだ。

 漆黒に、視界が閉じた。術が効果を為したのか、見定めるまでも春海チュンハイの正気は持たなかった。

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