第21話:千の手

 普通に。杭港ハンガンまでの旅路と同じように歩いていると、破浪《ポーラン》親子ののろい歩みが無駄に思えてくる。


 罠を避けるのに必要とは理解した。心の底からだ。けれどもここまでいくつ避けたか、正確な数は春海チュンハイに知れない。

 それよりも襲い来る魔物のほうが、圧倒的に多いと感じた。


「また黄金蟲?」

「殻が硬くてね。来たばかりの探索者じゃ、傷一つ付けられない」


 夜、樹液を吸う甲蟲と同じ姿をしている。破浪ポーランの呼ぶ通り、黄金色に光る体躯。

 ただし、大きい。球に近い体形は、春海チュンハイがうずくまったほどに及ぶ。それが必ず三、四匹で集う。


「だから間引いてあげるの? 親切ね」


 のろのろと進めば、魔物に見つかる率が上がる。樹液を吸う相手なら構わないが、迷宮に棲む彼らは体液を代わりにすると聞いた。


 そんなものにいちいち拘うより、早く目的を達したほうが危険度も低いのではと思う。

 おそらく黄金蟲を仕留めるのもままならない、初心者の浅慮なのだろうが。


「魔物にも命があるってのは分かるけどさ。そう皮肉らないでよ」

「えっ? いえ、そうね」


 比較的に殻の薄い頭部を、破浪ポーランの手斧が真っ二つにした。偉浪ウェイランは背後へ回り、威嚇に殻を広げた下へ大鉈を叩き込む。


 一匹ずつ、黄金蟲の動きが止まる。細い糸のぷつりと切れるがごとく。

 最初から真鍮の重石だったように、二度と動かない。それを悲しいとは感じなかった。


 むしろ発した言葉の通り、誰とも知れぬ犠牲者を減らそうとは正しい。そう思っていた。

 (何が違うっていうの)


 百足と黄金蟲と。同じ蟲だが、百足は人の顔を持つ。

 黒犬と黄金蟲と。同じく人の顔を持たないが、黒犬は懐く。


 (私は間違ってない)

 ぶんと風を切るほどに、春海チュンハイかぶりを振った。

 これで正しいのだ。生きる者に、序列はある。


 人間が最も尊く、人間と親しい牛や山羊が続く。蟲は遠く下の存在と、経典にも書いてあった。


「大丈夫? 疲れたなら休もうか」


 背中に大きな手が触れる。分厚い革の手袋が、温もりまでは伝えなかった。

 しかしとても繊細な力加減が、破浪ポーランの優しさの加減に感じた。


「私に——」


 (私に遣う気持ちがあるなら、使命を果たさせてよ)

 言いかけ、口を噤む。今ではないと自分に言い聞かせ、心を落ち着けた。

 なぜ今でないのか、理由は考えなかった。


「いえ、あなたたちの普段通りで」

「でも」

「平気。でも、どうしてもつらくなったらお願いするわ」


 破浪ポーランの手を、両手でそっと押し戻した。

 三階層へ下りて、既に三回の休憩が取られた。偉浪ウェイランも異議を唱えなかったから、これで通常なのだと思っていた。


 過ぎた時間は分からないが、おそらく二日目が終わろうとしている。

 歩くだけならまだまだ行けた。だが妙に足が重く、傍目にも元気溌剌とは見えまい。


 (特別扱いなんて)

 もうされているなら、取り返せない。だとしたらこれ以上は、と唇を噛んだ。


「分かった。まあ聞いてる通りなら、もうすぐだから」

「気にしないで」


 偉浪ウェイランの背を追い、小走りで破浪ポーランを置き去りにする。

 彼は引き留めも咎めもせず、何歩か遅れて追いついた。

 それがまた春海チュンハイには、よく分からない。何を言われたとして、気にするなと繰り返す心積もりでも。


 ——それから。

 芋を蒸かすのを待つほどの頃合いに、偉浪ウェイランが足を止めた。


「おい」


 見つけたくらいは言って良さそうに思うが、息子も文句を言わず駆け寄る。

 錆色に塗られた、方形の盾が見えた。春海チュンハイがすっぽり隠れられる、僅か湾曲した大盾。


 横倒しだが、誰かがそうしたように壁へもたれた。

 破浪ポーランの手が触れ、「間違いない」と。胸が苦しくなった。誰かが喉へ、饅頭を押し込んだかもしれない。

 息を呑んで押し流し、盾に近づく。


 破浪ポーランは盾を離し、何歩か歩いてまた跪いた。そこには手甲。細い金属の板が重ねられた、手間のかかる造りだ。

 盾の前へ運ばれたのを持ち上げてみる。腕を通す革の部分へも、縦に鉄線が縫い込まれていた。


 ずしり、重みが胸に伝わってくる。

 次々と、亡くなった誰かの持ち物が集められた。長靴、外套、まっすぐな剣。

 破浪ポーランは一つずつを、丁寧に拾っていった。それこそどこの部品かも分からぬ、鋲の一本まで。


安息アンジィを」


 両膝を突き、合掌で祈る。

 元から盾のあった一角が、葬儀の祭壇と化した。屍はなくとも、死んだ者の魂を思うには十分だ。


 (屍が……)

 なぜ。

 不審に気づき、そこらじゅうを見回す。行く道、来た道、どこを向いても折れ曲がって見通せない。


 ならば屍は、何者かが死角へ運んだだけか。しかしそれでも、なぜ痕跡がないのだろう。

 手甲にも靴にも、中身がなかった。

 魔物がわざわざ、裸に剥いていったというのか。引き摺った跡、滴った血痕、何もないなどあり得るのか。


 革や布が、使い込んであちこち擦り切れている。そんな品々になぜ、汗や泥が染み込んでいない。

 どんな洗濯をしようと、それこそ魔物が丹念に舐め取ったとして、あり得ない。


 (洗濯の仙人様でもいらっしゃるというの?)

 地上に生きる者の業とは思えなかった。破浪ポーランはこのおかしな出来事に気づいているのか。

 まだ熱心に探し回る姿を邪魔するのは悪い。が、聞かずにはおれない。


「ねえ破浪ポーラン


 彼が振り向く。「ん?」と、もはや見慣れた感情の薄い顔で。

 瞬間まで、屍のことを聞くつもりでいた。だが破浪ポーランの向こうに、気になるものが見えた。


 (誰か居る?)

 視界の利くぎりぎりに、俯いた頭があった。曲がり角から突き出た格好で、首より下は見えない。

 いや頭巾を深くかぶっていて、頭も顔も見えなかった。


 けれども壁に手を突いて支え、吐き気を堪えるように上下していた。

 どう見ても人間だ。地上では多く見かけた探索者と、ここまで出会わなかったほうがむしろおかしい。


「あの人、具合いが悪そう。様子を見に行っていい?」


 一人で歩くな。最初の忠告を破って死にかけた。

 だから今回も、きちんと問うた。春海チュンハイが行くなら、破浪ポーランに先導してもらわねばならない。


「あの人?」


 指さしたほうへ破浪ポーランが向く。屈めていた腰をかばい、おもむろに。


 ——と。

 曲がり角の誰かが動く。頭を持ち上げたのは、しゃがんだ姿勢から立ち上がったのだろう。


 という理解は、すぐに放棄することとなった。

 頭の角度は俯く形で変わらない。だのに高さだけが、天井のすれすれまで持ち上がる。


春海チュンハイあれ・・を見るな」

「えっ?」


 曲がり角の誰かが、前進し始める。壁の向こうで見えなかった身体が、ゆっくりと姿を見せる。

 頭から首、背中も。頭巾と繋がった白い布が隠す。前は閉じていないらしく、胸に当たる部分がゆらゆらと揺れた。


 (腕が)

 目を離せない。見るなと言われたこと、その意味にも気づいたはずだが。

 曲がり角の誰か。揺れる布の裾から、腕をだらんと垂らしていた。


 青白く、蝋細工のような腕。それは左右を一対に、三対、四対……前進するたび、奇術のごとく増えていく。

 いくつあるか、見届けたくて堪らなかった。


春海チュンハイ、見るなっ!」


 叩きつける怒号。驚き、はっと目を瞬かせた。

 次の瞬間、視界が闇に閉ざされた。破浪ポーランの胸に顔を埋めたのだ、しこたまに鼻を打って涙が零れる。


「父さん、千の手だ」

「何ィ?」


 誰かが走った。破浪ポーランではない、春海チュンハイは彼の腕に守られている。


 (お父様が?)

 何があろうと歩調を狂わせなかった偉浪ウェイランが走った。

 それが何を意味するのか。具体的にはまったくだが、空恐ろしい事態と知らせて余りある。


春海チュンハイ。あれに手招きされた?」

「い、いえ。されてないと思う」

「そう、良かった。あれはまずいんだ」


 破浪ポーラン春海チュンハイを抱いたまま立ち上がり、走った。おそらく先を偉浪ウェイランが行く。


「迷宮を出るまで、きみは喋るな。気になるだろうけど、あとで必ず話すから」


 すぐ後ろに青白い手があるのかもしれない。走る足より、彼の声が追い立てられていた。

 破浪ポーランの全身に守られている。彼の全霊が、春海チュンハイを案じている。


 そんな男を疑うほど、春海チュンハイは愚かでなかった。しっかりと伝わるよう、大きく頷いて答えた。

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