第21話:千の手
普通に。
罠を避けるのに必要とは理解した。心の底からだ。けれどもここまでいくつ避けたか、正確な数は
それよりも襲い来る魔物のほうが、圧倒的に多いと感じた。
「また黄金蟲?」
「殻が硬くてね。来たばかりの探索者じゃ、傷一つ付けられない」
夜、樹液を吸う甲蟲と同じ姿をしている。
ただし、大きい。球に近い体形は、
「だから間引いてあげるの? 親切ね」
のろのろと進めば、魔物に見つかる率が上がる。樹液を吸う相手なら構わないが、迷宮に棲む彼らは体液を代わりにすると聞いた。
そんなものにいちいち拘うより、早く目的を達したほうが危険度も低いのではと思う。
おそらく黄金蟲を仕留めるのもままならない、初心者の浅慮なのだろうが。
「魔物にも命があるってのは分かるけどさ。そう皮肉らないでよ」
「えっ? いえ、そうね」
比較的に殻の薄い頭部を、
一匹ずつ、黄金蟲の動きが止まる。細い糸のぷつりと切れるがごとく。
最初から真鍮の重石だったように、二度と動かない。それを悲しいとは感じなかった。
むしろ発した言葉の通り、誰とも知れぬ犠牲者を減らそうとは正しい。そう思っていた。
(何が違うっていうの)
百足と黄金蟲と。同じ蟲だが、百足は人の顔を持つ。
黒犬と黄金蟲と。同じく人の顔を持たないが、黒犬は懐く。
(私は間違ってない)
ぶんと風を切るほどに、
これで正しいのだ。生きる者に、序列はある。
人間が最も尊く、人間と親しい牛や山羊が続く。蟲は遠く下の存在と、経典にも書いてあった。
「大丈夫? 疲れたなら休もうか」
背中に大きな手が触れる。分厚い革の手袋が、温もりまでは伝えなかった。
しかしとても繊細な力加減が、
「私に——」
(私に遣う気持ちがあるなら、使命を果たさせてよ)
言いかけ、口を噤む。今ではないと自分に言い聞かせ、心を落ち着けた。
なぜ今でないのか、理由は考えなかった。
「いえ、あなたたちの普段通りで」
「でも」
「平気。でも、どうしてもつらくなったらお願いするわ」
三階層へ下りて、既に三回の休憩が取られた。
過ぎた時間は分からないが、おそらく二日目が終わろうとしている。
歩くだけならまだまだ行けた。だが妙に足が重く、傍目にも元気溌剌とは見えまい。
(特別扱いなんて)
もうされているなら、取り返せない。だとしたらこれ以上は、と唇を噛んだ。
「分かった。まあ聞いてる通りなら、もうすぐだから」
「気にしないで」
彼は引き留めも咎めもせず、何歩か遅れて追いついた。
それがまた
——それから。
芋を蒸かすのを待つほどの頃合いに、
「おい」
見つけたくらいは言って良さそうに思うが、息子も文句を言わず駆け寄る。
錆色に塗られた、方形の盾が見えた。
横倒しだが、誰かがそうしたように壁へもたれた。
息を呑んで押し流し、盾に近づく。
盾の前へ運ばれたのを持ち上げてみる。腕を通す革の部分へも、縦に鉄線が縫い込まれていた。
ずしり、重みが胸に伝わってくる。
次々と、亡くなった誰かの持ち物が集められた。長靴、外套、まっすぐな剣。
「
両膝を突き、合掌で祈る。
元から盾のあった一角が、葬儀の祭壇と化した。屍はなくとも、死んだ者の魂を思うには十分だ。
(屍が……)
なぜ。
不審に気づき、そこらじゅうを見回す。行く道、来た道、どこを向いても折れ曲がって見通せない。
ならば屍は、何者かが死角へ運んだだけか。しかしそれでも、なぜ痕跡がないのだろう。
手甲にも靴にも、中身がなかった。
魔物がわざわざ、裸に剥いていったというのか。引き摺った跡、滴った血痕、何もないなどあり得るのか。
革や布が、使い込んであちこち擦り切れている。そんな品々になぜ、汗や泥が染み込んでいない。
どんな洗濯をしようと、それこそ魔物が丹念に舐め取ったとして、あり得ない。
(洗濯の仙人様でもいらっしゃるというの?)
地上に生きる者の業とは思えなかった。
まだ熱心に探し回る姿を邪魔するのは悪い。が、聞かずにはおれない。
「ねえ
彼が振り向く。「ん?」と、もはや見慣れた感情の薄い顔で。
瞬間まで、屍のことを聞くつもりでいた。だが
(誰か居る?)
視界の利くぎりぎりに、俯いた頭があった。曲がり角から突き出た格好で、首より下は見えない。
いや頭巾を深くかぶっていて、頭も顔も見えなかった。
けれども壁に手を突いて支え、吐き気を堪えるように上下していた。
どう見ても人間だ。地上では多く見かけた探索者と、ここまで出会わなかったほうがむしろおかしい。
「あの人、具合いが悪そう。様子を見に行っていい?」
一人で歩くな。最初の忠告を破って死にかけた。
だから今回も、きちんと問うた。
「あの人?」
指さしたほうへ
——と。
曲がり角の誰かが動く。頭を持ち上げたのは、しゃがんだ姿勢から立ち上がったのだろう。
という理解は、すぐに放棄することとなった。
頭の角度は俯く形で変わらない。だのに高さだけが、天井のすれすれまで持ち上がる。
「
「えっ?」
曲がり角の誰かが、前進し始める。壁の向こうで見えなかった身体が、ゆっくりと姿を見せる。
頭から首、背中も。頭巾と繋がった白い布が隠す。前は閉じていないらしく、胸に当たる部分がゆらゆらと揺れた。
(腕が)
目を離せない。見るなと言われたこと、その意味にも気づいたはずだが。
曲がり角の誰か。揺れる布の裾から、腕をだらんと垂らしていた。
青白く、蝋細工のような腕。それは左右を一対に、三対、四対……前進するたび、奇術のごとく増えていく。
いくつあるか、見届けたくて堪らなかった。
「
叩きつける怒号。驚き、はっと目を瞬かせた。
次の瞬間、視界が闇に閉ざされた。
「父さん、千の手だ」
「何ィ?」
誰かが走った。
(お父様が?)
何があろうと歩調を狂わせなかった
それが何を意味するのか。具体的にはまったくだが、空恐ろしい事態と知らせて余りある。
「
「い、いえ。されてないと思う」
「そう、良かった。あれはまずいんだ」
「迷宮を出るまで、きみは喋るな。気になるだろうけど、あとで必ず話すから」
すぐ後ろに青白い手があるのかもしれない。走る足より、彼の声が追い立てられていた。
そんな男を疑うほど、
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