第20話:境界はどこに

 いつの間にか、少し眠ったようだった。ぼんやり重く感じる身体を起こし、軽くなった脚を撫でる。


 父子は先と変わらぬ位置で寝そべり、目を閉じていた。あまりに静かで、眠っているかは分からない。


「ひっ」


 突然だった。目の前を、指一本の隙間で、何かが横切る。

 咄嗟に声を上げたことに、その何かが過ぎてから気づいた。口を押さえ、眼球だけを動かして追う。


 (狼? じゃないか)

 魔物かと思えば、違う。見たことのない、闇なら抜け出たような毛色だったが、犬の仲間だろう。


 春海チュンハイよりも大きな図体に、熊の頭を宛てがったかと思う怖ろしげな風貌。

 ただし首に巻けば暖かげな尻尾は、もふもふと柔らかそうに揺れた。


 (可愛いが過ぎない?)

 総じれば、そんな印象だ。けれども唇から、長い犬歯が覗いている。四肢も春海チュンハイより太い。

 なぜか無視されているが、襲われれば腕力で抗すること叶うまい。


 (あっ、これが空虚の力なのね)

 まだ寝ぼけているらしい。破浪ポーランの祝符を使う姿を思い起こし、手を打った。

 黒い犬は春海チュンハイなど存在しないように、尻を見せつける。


 あくせくとしない落ち着いた動作だが、首を左右に何か探しているようにも思えた。

 仲間をだろうか。気になって春海チュンハイも見回す。


「わあ……」


 小さく、嘆息が漏れた。大小取り混ぜ、何匹居るやら。およそ二十歩の半径に、きっと三十ほど。

 仲間に違いないが、同種というだけでなく、群れと見えた。


「あなたの家族ね」


 声をかけても気づかれぬらしい。手を伸ばせば易易と触れられる黒い犬に、気持ちももどかしく微笑む。

 他に鼠や、小さな蟲の姿もあった。人間が居なくなったと安心して出てきたに違いない。


「見たままだけど、黒犬って呼ばれてる。ちょっと撫でるくらいなら平気だよ」

「えっ」


 寝起きの雰囲気はまるでなく、破浪ポーランの声がした。慌てて振り向くと、あぐらに水袋を口へ当てていた。


「へ、平気って」

「触りたいのかと思って。可愛いだろ?」


 両耳から頬、首すじへ、熱が走る。消火すべく手を当てると、湯を沸かせそうに熱かった。


 (べ、別に恥ずかしいことなんてしてないし)

 思い返しても、何もない。確信を持ち、この光量では赤面も察せられていまいと、声に平静を纏わせた。


「ええ、可愛いわ。皇都ではね、犬を飼うのが流行ってるの」

「へえ、面白いことをするんだね。まあそんなに好きなら、抱き着いてもいいよ。術が破れるけど、こいつらなら大丈夫」


 犬を飼うのは皇都でも金持ちの流行で、春海チュンハイの経験ではなかった。

 しかしことさらに否定するのも滑稽な気がして、放置した。


「人間を襲わないの?」

「襲うよ。でも俺が居るから」


 伸ばしかけた手が竦む。

 からかっているのか。睨んだが、やってみろと手で示された。


「——ふわっふわね。ちょっと汚れてるから、水浴びさせてあげたいけど」

「どうかな。喜ぶかも」


 ためらいつつ腰を撫でたが、やはり気づかない。この分なら本当に抱きしめても構わなそうだ、と勘違いしそうになる。

 が、やめた。ここは魔物の巣食う迷宮で、春海チュンハイは遊びに訪れたのでない。


「飼い慣らしてるの?」

「いや。何だか昔から、獣には好かれるんだ。蛇もね。嫌われたのは、そいつが初めてさ」


 破浪ポーランの指が、春海チュンハイの首へ向く。

 呼ばれた当人は出てこなかった。


「そう。だからこんなに集まって——って、おかしくない? 術が効いてないってことでしょ。それに好かれてるなら、どうして今まで出てこなかったの」

「さあね、言葉が通じるわけじゃない。でもたぶん、俺の臭いがここで消えたからとか」


 破浪ポーランは自身の袖に鼻を寄せ、春海チュンハイにも嗅いでみるかと突き出した。

 五、六歩も離れていては叶わないが、そも知らぬ男の体臭に興味はなかった。


「遠慮します」

「最初は着いてきてたんだ」

「ええ?」


 脈絡なく、何を言い出したか驚いた。だがどうやら、犬たちが今まで見えなかった理由についてだ。

 こんな話し方では、僧院に集まった門徒から嫌われてしまう。人間とは直感でなく、言葉で通じ合わねばならない。


「こいつらだよ。一階層にも大鼠の群れが住んでる。着いてくるのはいいけど、魔物と争うのに巻き込むからさ。遠慮してくれって言ったんだ。だから今でも、呼べば来てくれる」


 犬を愛で、むやみに傷つけるのは忍びないと言う。それなら、と百足の屍を顧みずにいられない。

 同列でないくらいは分かる。が、むやみにどころか進んで傷つけるのはどうだ。


 春海チュンハイとて嫌う相手は居て、たとえば最近では黒蔡ヘイツァイ一家と関わりたくないと思った。

 だとしても、迷宮で何か起こればいいのにとは考えない。


 それと何が違うのか。そして何より、破浪ポーランが使命を聞き入れてくれなければ、この犬たちも危ういのだ。

 彼の勝手な価値観で魔物が蹂躙され、獣も人も死に絶える。

 (やっぱりそんなの、おかしいわ)


「——おい、飯」


 どう言えば分かってくれるだろう。言葉を探すうち、偉浪ウェイランも起き出した。

 破浪ポーランの食った福饅頭の残り、四分の一ほどを腹に収めると、すぐに歩き始める。


 聞いた通り、お神酒で描いた線を踏み越えると、春海チュンハイの近くにいた黒犬が唸った。

 けれどもすぐ、何ごともなかったように、破浪ポーランへすり寄っていった。


 一匹ずつ頭を撫でられ、彼らは満足げに去る。無駄に吠えることもなく、誇り高く顔を上げて。


「いよいよ三階層ね」

 

 間もなく下りの階段に到達した。二階層へ下りた階段と、きっと寸分違わない。

 魔物の闊歩する中、どうやって工事したのか。知れたところで詮ないことが気にかかる。


「だね。でもまだだよ、四階層へ下りる階段の近くらしいから」

「ここも二階層みたいに広いの?」


 三階層もまた。四方のどこも、何処かへ通路が伸びた。目の届く一歩先に何があるか、春海チュンハイには知る由もない。

 それを偉浪ウェイランは、無言で突き進む。


「いや?」

「良かった。じゃあすぐね」


 もし、この暗がりに一人残されたら。

 迷いのない姿を見て、そんな妄想が浮かんだ。


 (一刻と正気で居られないかも)

 命が危ういから。

 悲しい姿をした魔物と出遭うから。

 全貌の窺い知れぬ、広大な空間そのものが怖いから。


 どれか一つが根拠でなく、どれもだろう。

 感情の読めない破浪ポーランを見ると、あれこれ考える自分のほうが阿呆に思えた。


「いや違う。三階層のほうがもっと広いんだ」

「……そう」


 ここまで達するだけで、およそ一日。彼らの潜るという十二階層までは、どれだけの道のりか。

 ふっと目まいを感じ、もはや怒って見せることも面倒になった。

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